廣川 克也

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  • 年齢46歳

  • 出身地 北海道

  • 結婚 既婚

  • 海外経験なし

  • 職業 起業支援

  • 勤務地 神奈川県

  • 会社名一般財団法人SFCフォーラム

  • 出身校 上智大学

  • 専攻 経済学部

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3 Points

浪人時代に札幌へ出て地元を離れる自信がつき東京の大学へ

就職活動で80社200人をOB訪問。社会の仕組みが理解できる銀行に就職

消えない「あずましくない」感覚(居心地の悪さ)と向き合う

松野百合子

聞き手

松野百合子

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幼少期〜小学校まで

Q 地元について教えてください。

北海道の小さな村です。小学校は一学年自分を入れて10人でした。今では過疎化でそうした学校が増えたかもしれませんが、当時はまだ少なかったと思います。片道4キロ、徒歩で通学しました。真冬だと地吹雪の中です。サザエさんのカツオ君が半ズボンで登校しているのは特別なことだと思っていました(笑い)。

Q ご実家は農家でしたね。

継いでいれば自分が5代目でした。農家では子どもも戦力なので、家の手伝いをしろと言われていましたが、子ども心には嫌でしたね。となり近所が全員知り合いという本当に狭い世界で、祖父が地域の世話人のようなことをしていたため、自分も注目されていたと思います。小学校高学年くらいだと頼られるのが嬉しい気持ちもあり、また、長男(=後継者)ということもあり、自分に期待されている役割を果たさないといけないのでは、と思っていました。

中学校時代

Q 中学時代の様子を教えてください。

出身地の北村は結構広く、村内5か所の小学校から一つの中学に生徒が集まってきました。中学は1学年2クラスで合計70人くらいです。95%は農家出身で、やはり「あそこの家には誰がいる」という感じでみな知り合い同士でした。野球部に入りましたが、そもそも選択肢が少なく、野球、サッカー、剣道とあと陸上くらい。大学で上京した時にアメフトやラクロスをやっていた同級生がいたのにはびっくりしましたね。野球部では公式ルールもわからないままプレーしているのが常態でしたが、自分は1年生からベンチでスコアをつけたりルールブックを調べたりしていました。

高校時代〜大学受験

Q 高校には、より広い地域から生徒が集まると思います。世界は広がりましたか?

中学では結構勉強ができたのに、高校ではほかの出来の良い生徒の存在に圧倒されました。一生懸命勉強して合格し、喜んで入学したのに、「別に他の学校でもよかった」という人もいて結構ショックでしたよ。野球は、中学は軟式、高校は硬式だったので、太刀打ちできずあきらめました。高校入学直後に吹奏楽部に入部したものの、つまらなくて退部。その後は部活は何もしなかったです。勉強はそこそこしましたが、トップ集団を目指したりはせず、地味に過ごしていました。

Q 進学校に進んだということは大学受験組ですね。実家をつぐ話はありませんでしたか?

農業高校に進まなかった時点で、自分が家業をつがないことを親は覚悟していたと思います。高校では圧倒的に進学希望者が多く、なかでも北海道大学志望が多かったです。自分も、北海道を離れること自体考えられず、周囲と同じように北大を受験しましたが合格できず浪人することになりました。

Turning Point

浪人時代

Q 北海道志向が強かった廣川さんが東京の上智大学に目を向けたきっかけは?

現役の頃、ほとんどが道内進学希望で僕の高校には東京の私立大学を受験する者は学年でも5人いるかいないかだったと思います。浪人時代に札幌で寮生活をしたら、周囲には東大希望者や早慶を目指す人もいて、初めてそういう選択肢を考えてもいいのか!ということに気づきました。それと、札幌という都会で暮らしたことで変わったことがあります。それまで住んでいた村から初めて離れて暮らし、「離れても大丈夫だ」ということが分かったんです。

ー 自由になったというか。

田舎にいると実家を離れて生活することをあまり考えません。特に農家は転勤など「住む場所の移動」はあり得ませんので。僕は今はもう、もう外国でもどこでも生きていけると思えるようになりました。今、地方で暮らしている若い人たちには、自分自身を型にはめたり、小さな枠を決めることはもったいないことだと知ってほしいです。

Q 東京の大学へ進学することにご両親は賛成でしたか?

親は当初は反対でした。北海道から出すつもりはなかったと思います。自分はたまたま上智に合格し行きたくなったんですが、当時の上智はアナウンサーやアイドルなど芸能人のイメージが強く、「農家の長男が家を継がずに、東京の芸能人の大学に行くとは何だ」と言われました(笑)。

ー それでも従わずに進学したんですね。

はい。上智に合格した時点で、北大は受けませんでしたから。

大学時代

Q 東京で大学生活が始まりますが、いかがでしたか?

東京では人の多さにびっくりしました。渋谷のスクランブル交差点では一回の青信号でピーク時には2000人が横断するそうですが、北村の当時の人口が4000人ほどでしたので、これを見てもう帰りたくなりました。あと、電車の乗り方もわからなかったですね。

自分にとっては学生寮に入ったのが良かったです。そこは田舎者の集団で自分と似たような境遇の人が多く、バンカラな徒弟制度みたいな世界でした。先輩後輩の関係は絶対で、「北海道出身だから」「学部が一緒だから」と言って知らない先輩と引き合わされたり、さらには「雪国出身」とか「文系」とか大雑把なくくりもあって、とにかく色んなグループに所属できました(笑)。

Q 経済学部での勉強は充実していましたか?

授業は面白かったです。そもそも経済学部を選んだ理由が、世の中の仕組みを知りたかったことです。自分は世の中の仕組みを知らなさ過ぎて、このままだと社会に役立たないのではないか、という不安がありました。就職で銀行を選んだのも同じ理由です。極論ですが、農家の場合は明日の天気さえわかれば生きていけます。それではいけないと思い、経済を勉強すれば世間のからくりわかると思って志望しました。

就職活動

Q 就職されたのはバブル崩壊後ですか?

自分は1993年卒でバブル崩壊直後でしたが、まだ皆が、何かおかしいがそのうち持ち直すだろう、くらいに思っていた時期です。就職活動はまだ大丈夫でした。

Q 具体的にどんな就職活動をされましたか?

カメラが好きだからキャノンを受けるとか、理系で日立に推薦をもらうなど就職先を決めていく友人がいましたが、そういうものが何もない自分は足で稼いで調べるしかないと思いました。「世の中のことを知りたい」という目的ははっきりしていたので、目的にかなう職場を探すためOBに会いまくって。寮は幸いOBの人脈が豊富で、80社200人くらいを訪問しました。

ー 80社200人!そこまでやったのは凄い行動力です。

当時はインターネットもありませんし、企業の情報は会社四季報やリクルートが発行している会社案内くらいしかなかったですから。そうして話を聞いていくうちに、社会の仕組みに関わるなら商社か金融だな、と思いました。銀行に絞った決め手は、金融の方が個人なら年金暮らしの人から大金持ちまで、企業も中小から大企業まであらゆる層をカバーできるからです。

だから銀行員という肩書がほしかったわけではないんです。あくまで仕事の内容が重要で、誰でも使う社会の仕組みを提供する側に身を置くことで、自分も役に立つんじゃないか。役に立てば生きていけるんじゃないか、と考えていました。逆に言うと、何も知らない人にはなりたくなかったです。

就職〜銀行員(途中、経産省出向)

Q 住友銀行に就職されましたが、最初の配属はどういった部署ですか?

銀行には11年いましたが、最初は個人向け。その後、中小企業担当、大企業担当と、まあ普通のルートです。入社直後からバブル崩壊の不景気で株価も低迷し、銀行は貸し渋り、貸しはがしが主な業務でした。自分は真面目だったので、会社から「回収してこい」とか「追加担保をもらえ」と言われれば、おかしな方向だけど頑張ってそればっかりやっていました。でも、あるとき「あれ、なんで俺、回収ばっかりやってるの?お金貸さないと銀行って儲からないんじゃなかったっけ?」と思ったんですよ。そこで、上司との面談の際に生意気ですが自分の考えを話しました。そうしたら次の人事異動で出向を言い渡されました。当時は結婚したばかりで、本当に焦って撤回しようと思ったくらいです。ところが、人事部に辞令を受け取りに行ってみたら、出向先が通産省であり、ベンチャー支援の新しい政策を考えるチームでした。その支店長は私のことを考えてくれ、前向きな仕事ができるところに出してくれたんです。

Q 経産省でのプロジェクトとは?

いわゆる失われた10年の頃です。日本経済が長く停滞している一方、アメリカや欧州ではベンチャー企業が次々と生まれ、政府も支援し、新事業が作られて雇用と税収を生んでいた。この仕組みを日本に取り入れるための調査業務です。他行や総研から集まったメンバーで構成された部署でした。業務内容は前向きでやっていて楽しかったです。世の中のしくみを知るという意味では、日本で誰も知らないテーマについて先頭に立たせてもらい、アメリカ、フランス、イスラエルなど各国のしくみを調べて日本に伝えました。

2年半経産省のプロジェクトに携わった後、銀行にもどりました。政府の方針を受け、銀行の中でベンチャー支援部隊ができていて、そこに入りました。そこで東京本部で仕組みづくりに携わることができ、大企業なので予算もあり面白かったです。一方、大企業ならではのやりたくない仕事をやらされたり、やりたくてもできないこともありました。今思い返すとうぬぼれていたと思いますが、当時は無理解な上司がいなくても自分でベンチャー支援をやっていけると思っていました。

転職 〜 大学でのベンチャー支援

Q その後現在のお仕事に就かれたわけですが、経緯を教えて頂けますか?

その頃、北海道大学がベンチャー支援や技術移転をはじめるということで、興味を持ちました。実家に近いので、故郷に錦という感覚もあり転職しました。銀行の時に比べ収入は半減しましたが、その分、物価が安いので問題ありませんでした。嫁さんは大反対です。北海道では友達はいないし仕事もないですし。幸い彼女の元の職場の紹介で、札幌でも仕事をすることができましたが、ずっと戻りたいと思っていたようで、慶応の求人への応募が出た時に強く勧めてきたのは、実は嫁さんです。

Q 慶応大学に転職を決断した背景は?

北海道にいた頃は都会だと思っていた札幌が、東京生活後に帰ってみたら、実はムラだったと気づいたこともあります。例えば出張にしても北大以外の機関にも仁義を切らなければいけないようなところです。また、東京に出て行って戻ってきた人という目で見られ、自分の居場所ではないように感じてしまいました。

慶応大学の起業家支援施設に転職しましたが、正直なところ慶応のOBが有力だと思い、自分が採用されるとは思っていませんでした。北大でのベンチャー支援は主に先生方のサポートでしたが、慶応では学生の起業支援です。最初は銀行員の感覚がぬけていないので、突拍子もないアイディアだと、「いいね」と共感する前に「それビジネスになる?」と聞いちゃったり。支援対象の学生との付き合い方もはじめは分かりませんでしたが、学生と部下は違うという気づきもありました。今では、リスクを意識しながらも、すべて学生に運営を任せているプロジェクトもあります。

Q 最近、ベンチャー支援ファンドを始められました。そのきっかけは?

自分はアドバイザーという立場でベンチャー支援をやってきましたが、アドバイザーには支援先企業に対して何の立場もないことを感じました。投資家なら株主として、銀行は融資元として発言権があるし、コンサルタントも契約に基づいて助言します。一方、支援者というのはなかなか微妙で、社長は僕の言う事を聞いても聞かなくてもいいわけです。そうしたら、自分のアドバイスの正しさが重要だと思い、知識を得るために、本を読み漁るようになりました。儲けや流行り目線の意見ではなく、神父や僧侶が道を説くように、正しく、ビジネスの王道を説くべきだと思っています。

ベンチャーの問題でお金を出せば解決することは多いです。その時に、正しいお金のつけ方ができると良いと考えたのがファンドを始めたきっかけです。シリコンバレーは確かに素晴らしい。金融工学を含めあらゆる手段を使い利益を上げてきます。現在時価総額ランキングを見ると上位はほぼアメリカのベンチャー企業ですよね。ところが、企業の長寿ランキングを見ると10社中7社は日本企業です。日本にはシリコンバレー方式よりヨーロッパの伝統と革新の両方を重んじるやり方があっているのではないでしょうか。

VCは数多くあるので、同じことをしても仕方ありません。大手VCと組んで大きくやればよいという意見もあります。自分は、小さくてもいいから、正しい出資をするというポリシーのファンドを運営し、それが正しいということを証明したいと思います。

Q 廣川さんは「いつまでも消えない居心地の悪さ」があるとおっしゃっていますが、それは具体的にどういうことか教えてください。

北海道の方言で「あずましい」という言葉があります。「こたつでミカン」のように心地よい、しっくりくる感じを表しますが、自分はどこにいても「あずましくない」感覚があって、どんなに馴染もうという努力をしても消えません。もちろん職場環境が居心地悪いというのではないんです。中学の野球部でルールブックを読み込んだのも、そうすれば何とか受け入れてもらえるかも、との気持ちからですし、高校でもトップ集団ではなかった。上智大学でも自分はカトリック信者ではない。住友銀行に入ったら当時メインストリームはやはり国立大学出身者です。北大でも慶応でも、自分の出身校ではないという引け目がなんとなくありました。今住んでいる鎌倉のコミュニティーも引っ越し直後は新参者にとっては落ち着かず、子供が鎌倉で生まれてようやく馴染んできた感覚があります。「あずましくない」感覚を消したいがために一生懸命やるしかないということを覚えたんだと思います。

Q 「スタートアップ=リスクの低減」とおっしゃっています。一般の印象と違いますが?

起業家は、博打みたいなことをやる人たちではなく、自分でコントロールできるリスクに突っ込んでいく人たちだと思っています。逆に変化しないこと、例えば、知ってしまった社会課題の解決に挑戦しない、住んでいるところに不満がありながらも動かない、というなんでも他人事というか、消極的な意味で安定志向な姿勢がむしろ大きなリスクだと考えています。僕は田舎から出てきて、最先端のこと見聞きしているけれども、たまたまここにいるだけです。本当にちょっとだけ変わってみる。うまいこときっかけをつかんでやってみる。それが人生のリスク軽減になり、楽しい人生を送れる可能性が高いなら、やらないのはもったいないですよ。もし変わっていなかったら今頃どうなっていたか、考えるとけっこう怖いですね。

Q 今後どうしていきたいですか?

やはりファンドの成功が大きな目標です。挑戦する起業家の方々を正しくお手伝いしたいですし、ファンドに出資してくれた人たちへお返しすることも必要です。ビジネスですから冷静にやらなくてはいけなくて、投資先の企業がだめになったら社長の首を挿げ替えるくらいの覚悟が必要だと自分に言い聞かせています。これも、自分の居場所を自分で見つけること、社会の役に立つんだということを証明したい、ということなのかもしれません。