蓑口 恵美

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  • 年齢30歳

  • 出身地 富山県

  • 結婚 独身

  • 海外経験あり

  • 職業 IT企業勤務・マーケティング

  • 勤務地 東京都

  • 会社名ランサーズ株式会社

  • 出身校 東京学芸大学

  • 専攻 国際教育学部

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3 Points

現役で国立大合格出来なければ、農家の手伝いというプレッシャー

大企業志望だったが、結局は一人ひとりがどうするかだと気付いた

恋人が去り、仕事を頑張っても一緒に喜んでくれる人がいない虚しさを知った

岩田真一

聞き手

岩田真一

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地元について

ご本人曰く「山奥」で育つ。兼業農家の多い村で複数の仕事を掛け持ちして過ごすのが当たり前の環境だった。

Q 蓑口さんは富山のご出身ですね。どんなところで育ったのですか?

人口3万人を切るくらいの小さい村で生まれ育ちました。南砺市という富山県の中でも土地の8割が森林という「山奥」です。人よりイノシシやたぬきの方が多いくらいです。大きな産業はなくて、みんな農家をやりながら加工工場で働いたりする兼業農家が一般的です。地元での職業は選択肢が多くはないので、安定した仕事につきなさい、とか、一生懸命働かないと生きていけない、という事がよく話されている環境です。私の両親も平日は銀行員として出社して、土日は農業、ゴールデンウィークは田植えをしていて平日も休日も働いている両親を見てきました。田んぼが雪に覆われる1月以降しばらくの間は週末休めるのですが、その時は雪下ろしがあるので何となくずっと働いている印象です。

Q 多くのご家庭が農業に加えてもう一つ仕事をするということですが、その仕事内容はどのようなものですか?

両親の場合は銀行や農協でしたが、祖父は旅行業を営んだり、トラックの運転手をしたりと色々していました。現在私はクラウドソーシングの会社で働いていて、多様な働き方を訴求する立場ですが、今思うと兼業農家は農業に加えたもう一つの仕事のところは(ベースとして農業がある分)割と自由に選べるので、多様な働き方という面では関連しているかもしれません。

Turning Point

中学生

中学時代に村の交換留学制度を使ってオレゴン州で1週間留学。アメリカへの興味はセサミストリートやアメリカのホームドラマがきっかけだった。

Q 蓑口さんは中学時代に交換留学されたんですよね?

はい。1週間ですが、オレゴン州に。村が姉妹都市との間で1週間の交換留学制度を持っていたんです。毎年地元の中高生を20名くらい派遣していました。留学した生徒は帰国後に報告会でスピーチをするのですが、それを聞いていて私も絶対行きたいと思いました。

Q 何かきっかけがあったんですか?

子供の頃見ていたセサミストリートやフルハウスというアメリカのドラマに憧れていたのがきっかけですね。

Q その制度は人気が高そうですが、どのように選ばれるのですか?

成績です。だから頑張りました。あとは費用は半分は家庭持ちなので、余裕がないご家庭もあったかもしれません。

Q 高校受験はどうでしたか?

かなり真剣に受験勉強しました。小さい村なのでどこの誰がどの高校に入った、というゴシップで近所の大人達が盛り上がっているのを幼いころから見ていて、そのゴシップで一番になりたい!という気持ちが強かった気がします。どの家の親も自分の子供が良い高校に入ったと言いたい、そんな環境でしたね。中学までは差が見えないし、それに田舎の人は大学名も東大、早稲田、慶応、くらいしか分からない(一橋大学も知らないくらい)。その点、地元の高校は皆よく知っていて、自動的に高校の話が多くなるんです。両親は勉強のことはよく分からなかったので、私がやりたい、ということに関しては協力的で塾にも行かせてもらいました。

高校生

Q 高校時代はどうでしたか?

中学からずっとバスケ部でした。あとは大学受験ですね。

大学受験

大学選びは留学制度があることが基準。現役で国立大教育学部合格できなければ農業を手伝う約束でプレッシャーの中、見事合格。

Q 大学に関してはどのように選んだのですか?

中学で短期留学してから、大学でも留学をしたいと強く思っていました。初めはアメリカの大学に行きたいと親に話していたのですが、それは自分でもあまり現実的ではないなと思って、それなら推薦留学制度のある大学にしようと思いました。ただし両親からはいくつか条件が出されました。まず、食いっぱぐれの無いように、ということで教員免許を取得すること。そして東京の大学に行くなら生活費も高くなるので国立大学であること。それと現役で受かること、でした。それが満たされない場合は農業を手伝うことになっていました。

Q 現役国立大合格か田んぼ!ものすごいプレッシャーですね。

はい。必死で頑張りました(笑)。努力が報われて東京学芸大学に入学することが出来ました。教員も自分に向いていて、安定していていいかな、と当時は自分でも思っていました。ちなみに田んぼですが、今もゴールデンウィークは実家の田植えを手伝ったりしています。

大学時代

推薦留学枠獲得のため勉強と留学費用を稼ぐアルバイトの日々。

Q 大学ではどのような活動をされたのですか?

とにかく推薦留学を取ることが一番の目的だったので、勉強や留学費用を稼ぐバイトで忙しく、サークル活動のようなものはしませんでした。ただ国際寮に住んでいたので寮生の仲間がいてサークルのようなものだったと思います。あ、あとは英語のサークルには顔を出していましたがこれも勉強のためですね。

Q 見事大学の推薦留学を獲得されましたが、獲得は大変でしたか?

そうですね。倍率は10倍程度です。TOEFL、学校の成績(GPA)それと面接で決まります。英語圏は特に人気が高く10名程度の枠でした。ただし学芸大学の場合は留学目的の人はあまりいないので、一橋大学などに比べれば比較的取りやすかったんじゃないかと思います。

就職

就職してみてイメージしていた社会人像との違いを実感。会社とは「守ってくれる」存在だと思っていたが・・・

Q 就職に関してはどのような希望やイメージを持っていましたか?

最初は大手に入りたかったんです。ブランドが欲しいと。学生時代に抱いていた社会人のイメージは「かっこいい」「余裕がある」「社員教育をしっかりしてもらえる」そしてなにより会社とは「自分を守ってくれる存在」と思っていました。これは両親が銀行や農協で働いていた影響もありますし、就職活動中に聞いた社会人の声も大手企業の人たちばかりでしたので、キャリアアップというのは社内に限定しているもの、と思っていました。つまり「社会人」=「会社人」だと思っていました。

Q でも最初に就職されたのは小さい会社だったんですね。なぜですか?

はい。社員7人の小さい会社でした。希望していたのはネームバリューのある大手企業でしたが、リーマン・ショック後の就職活動ということで大変厳しかったんです。

Q 就職してみて学生時代に抱いていたイメージとのギャップはありましたか?

ものすごくありました。まず給料が思ったより安かった(笑)。つまり「余裕がある」という社会人像とは違いました。また小さい会社だったので「会社は自分を守ってくれるわけじゃないんだ」とも思いました。自分が行きたかったようなブランドのある大手から時々出向してくる方がいて、興味深く接していたのですが、意外にもあまりすごいと思いませんでした。会社名を聞くと「かっこいい」とは思いましたが、その方々個人についてはそれほど。。そして徐々に「会社ってファッションブランドみたいだな」と思うようになりました。要は中身(会社の場合は社員一人ひとり)が大事で、そのブランドが無くなってしまった時にとても困るんじゃないか、という不安を抱くようにもなりました。このころから、会社名というより、やりたいことを持っている人の方がかっこよく思えるようになってきたんです。

Turning Point

転職

キャリアで「絶対」というものが存在しないことに気づく。

Q その後PR会社に転職されましたが、そこでも大手企業に対する考え方は変わりましたか?

はい。PR会社に就職した当初はまだネームバリューも欲しいと思っていましたし、大手へのあこがれも消えていませんでした。PR会社で様々な大手クライアントを担当させていただく中で、あまりにも業界、産業の変化が速いということに気づきました。たとえば担当していた製品はものの半年ほどで古くなってしまったり、ビジネスを根本から見直すような事態に迫られた大手クライアントさんもいました。そのとき「絶対」というものはないんだな、と初めて思いました。産業寿命が短くなり、一旦ビジネスが軌道に乗ってもそれを代々引き継いで行くような仕事は今では少なくなったのだと。そんな中で、大手に依存しない考え方に変わってきたように思います。その会社や部署が無くなったら、自分はどこにもいけなくなるんじゃないか、という不安のほうが大きくなりました。

Turning Point

失恋

プライベートと仕事どちらも一生懸命だった。優先順位について深く考えた。

Q その他ターニングポイントと言える出来事はありましたか?

PR会社にいた26歳の時に付き合っていた恋人との大失恋です。それまでは給料アップや海外駐在員、などのキャリアを追っていました。彼氏のことも大好きでしたが、今思うとその時の私には仕事がプライオリティ(最高優先順位)でした。 そんな時に別れを切り出されて立ち直れないくらいショックでした。皮肉なものでそのタイミングで昇級したんです。給料も増えたし、海外出張にも行けるチャンスももらえるようになりました。でも、そのために頑張ってきたはずのに、全然嬉しくなかった。一緒に喜べる人がいない悲しさの方が大きかったんです。私にとってはとても大きな出来事でした。その気づきを多くの人に伝えたくなりました。

転職

自らの経験を通して学んだ「絶対はない」「誰もが輝けるような働き方の多様性が必要」。その実現のための転職。

それでクラウドソーシングの「ランサーズ」に転職されたのですね。

はい。もっと働き方に多様性を、と思いました。大事な人との関わりを減らすこと無く、自分のプライオリティを自分なりに決めて仕事ができるクラウドソーシングの仕組みは、私が伝えたいことの手段の一つとしてしっくり来ました。

Q 今後やりたいことはありますか?

今、行政のお金が地域に流れてきています。少なくとも東京オリンピック後までは続くと思います。この流れを利用して自分のような地方出身者、田舎暮らしの人たちにも自分らしく働ける人を増やしていきたいです。諦めてしまっている人にも、自分の経験を元に話をすることで自分らしく生きる元気を与えたいです。

蓑口さん、今日は貴重なお話をありがとうございました。

ありがとうございました!