森越 雅子

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  • 年齢40歳

  • 出身地 新潟県

  • 結婚 既婚

  • 海外経験なし

  • 職業 臨床発達心理士

  • 勤務地 東京都

  • 会社名保育園勤務

  • 出身校 白百合女子大学大学院

  • 専攻 発達心理学

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3 Points

小学5年の担任との出会いで積極的に

想定外の修士論文テーマを与えられ手探りで書きあげた

臨床発達心理士、保育園での地域交流事業の原点は町屋の「おかあさん」

インタビューの前に

人生の行く先を照らしてくれる何人もの“母・姉”がいた。「人の言うことに流されず、自分の意見を持て」と自立性を伸ばしてくれた父の存在。

松野百合子

聞き手

松野百合子

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幼少期

Q 子供時代や地元について教えて下さい

私の育った新潟県村上市は昔ながらの田舎町でした。今は違うのかもしれませんが、私が育った頃は男女の役割がはっきりしていて、例えば女の子の教育は短大まで、男子厨房に入らず、といった風潮があり、家父長制の社会でした。

ただ、我が家は少し変わっていました。父は土地柄を理解しながらも、特に私にはそういうことを求めず、「新潟ではだめだ。東京の大学に行きなさい。」と言われていました。母は「えっ?」と思っていたようですが、そこは家父長制のため父の意見にはあまり何も言いませんでした。ですから、私は部活にしてもずっと好きなことばかりさせてもらいました。

Q お母さんは、それでも女性の役割として家事を教えたりしましたか?

私の実家は美容院で両親とも美容師だったんです。人も雇っていたので忙しく、父も家事をしますし、子供も手伝わないと家が回らない。家族全員が家のことをやって当たり前でした。なので、友達の家のように家事の手伝いをしてお小遣いをもらうというようなことはなかったですね。何か欲しいもの、必要なものがあれば親に相談し買ってもらったし、自分の自由にできるお金が欲しかったら美容院のタオルたたみをしてお金を稼いだり。

両親は、ただのおねだりには反対していて従弟がおじいちゃんにおねだりして何か買ってもらっていても、私たち姉弟には絶対にさせませんでした。

Turning Point

小学校時代

Q 小学校時代は引っ込み思案だったのが、ある先生との出会いで変わったそうですね。

最初は好きなもの、やりたいことも特になく過ごしていましたが5、6年生の時の担任との出会いで変わりました。50過ぎくらいの国語が専門の佐藤和子先生。この先生は、正解を教え込む授業をする他の先生と違い、子供に考えさせるんです。全国から佐藤先生の授業を聞きに来る人がいたので、おそらく当時有名だったんだと思います。例えば、宮沢賢治の「やまなし」を読んで、クラムボンは何かを生徒が自力で調べるとか。生徒が自分で考えたことは、どんな意見でも聞いてもらえました。そうしたら、授業が面白くなり、積極的に発言できるようになりました。父に「人のいう事に流されず、自分の意見を持て。先生の言ったことは疑え。」と言われて育った私は、他の先生にとっては扱いにくい子供だったと思いますが、佐藤先生は面白がってくれたんです。ユニークな先生で、権威にこだわって自分の非を認めたがらない教師が多い中で、佐藤先生は自分ができないことも生徒の前でさらけ出していました。

そんな佐藤先生が、ある時私一人だけを呼んで「あなたは何にでもなれるから頑張って。」と言ってくれました。これで、私は頑張ろう、とやる気になったんです。

Q 素晴らしい出会いですね。何にでもなれる、と言われて将来の夢はなんでしたか?

私は医者になりたいとずっと考えていました。中学の時、将来の夢を書くことがあって、その時に医者の中でも精神科は見えないものを治すから面白いな、と思ったんです。それで、なるなら精神科の医者になろうと思いました。もっと後になり、医者は無理だと思い、精神科に近い心理学に興味を持ちました。

中学校時代

Q 中学時代はどうでしたか?

やる気にあふれていました。中学では吹奏楽部に入部したのですが、当時その中学の吹奏楽部はとても上手かったので、入学前から入部を決めていました。初めて楽器に触れる機会にコントラバスを見て、ピンときてしまったんです。他の楽器を試すこともできましたが、私は絶対コントラバスがいいと思いました。以来、ずっとコントラバスです。実際に弾いてみると、音はすぐ出てあまり苦労はしませんでした。ただ、田舎で教わる先生もいなかったので、教則本を参考に独学で学んだので大変でした。吹奏楽部自体は、私たちが入学した年に、前の顧問の先生が他校に転出してしまい、コンクールの成績はそこそこでしたね。前顧問の先生が転勤した学校が強くなってしまいました(笑)。

高校時代

Q 高校時代では音楽は続けなかったのですか?

ブラスバンドもありましたが、人数も少なく、ダンス部が強かったのでそちらに入部を決めました。実は小学校時代に少しバレエをやっていて。

Q ダンス部では部長までされたそうですね。

本当は部長を務めるような立場になかったんですけど。部長を決める時にひと悶着あり、結局私がやることになってしまいました。10人くらいの部員と、顧問の先生、レッスンをしてくれるコーチの3者の間で練習予定や、年3回ある発表の曲決めや振り付けの調整など、初めての経験でした。

ダンス部はかつて全国大会に出場したこともあり、大会に出るたびに何か受賞するのは当たり前だったのに、満を持して臨んだ3年時の大会で何の賞ももらえず茫然としてしまいました。もちろん自分たちも勝つ気で挑んでますし、学校でも地域でも激励されて送り出してもらった手前、大会の翌日学校に行くのが本当に辛かったです。「部長としてどの面下げて行くんだ」、と思いましたが、でも今行かないと行くチャンスがなくなると思って、頑張って登校しました。友達には「負けちゃったよ、ははは」と言って…。

― それは大人でも厳しいシチュエーションですね。よく頑張って登校しましたね。

今振り返っても、これが人生で一番辛かった思い出かもしれません(笑)。

大学受験

Q その大会が終わってから受験勉強だったわけですか?

はい、ただダンス部の部長をやるのと違って、受験は自分だけのことなので気が楽でした。私は理系クラスに進んでいたので、クラス内で女子は4,5人だけでした。高校では中学より学区も広がり、また進学校でしたが、女子で4年制大学へ進学する割合は多くはなかったですね。心理学を勉強すると決めた時に大学院にも行こうと決めていました。両親は大学院まで行かせるつもりはなかったので、余計な苦労をかけてしまいました。

Q すみません、基礎的な質問ですが、 「発達心理学」、そして森越さんのもっている資格「臨床発達心理士」について教えてください。

臨床発達心理士とは、発達心理学をベースとして、発達的観点から、子どもから大人まで生涯にわたり心理的支援を行うことを目的とした資格です。臨床としては、近年よく聞かれるようになったと思いますが、発達障害(注:自閉症、学習障害、AD/HDなど)を持つお子さんや大人への対応や、育児不安、虐待、引きこもりなどの問題、「気になる子」と呼ばれるいわゆるグレーゾーンの問題などについて、家族や地域、学校、保育現場への広がりを持った支援をします。問題のアセスメント(注:査定)において、発達的な視点を重視することも大きな特徴のひとつです。臨床心理士に比べて、コンサルタント寄りかな、というのが、私のイメージです。

ベースとなる発達心理学は、乳幼児期から青年、成人、さらに高齢期まで全生涯にわたる心と行動の発達過程について研究する学問です。研究領域が子供から高齢者まで、すべての人々の臨床的問題や福祉と深く結びついています。扱う問題の広さから、心理学にとどまらず、医学、教育学、社会学、文化人類学、歴史学など、学際的な研究を展開しています。さらに、保育、教育、病院、施設など、人間の発達や養育に関わる実践家との交流や協力も必須です。

たまたまご縁のあった白百合女子大学で、日本における発達心理学の黎明期を支えた先生方に教授していただけたことは、幸運だったと思います。

実際の職業としては、スクールカウンセラーは臨床心理士が多く、特別支援に関する仕事に臨床発達心理士が多いです。

― なるほど、発達心理は子供の成長期だけを対象にするのかと思っていましたが、人の一生にかかわるお仕事なんですね。

Q ところで、ご両親は美容院を継いでほしいというご希望はありませんでしたか?

父は、「雅子は向いているかも」と言っていましたが、女の子なので嫁に出すつもりで、継がせる気はありませんでした。二人弟がいますが下の弟が美容師になりました。ただ、田舎では限界があることもあり、今は千葉に住んで活動しています。

大学〜大学院時代

― 東京の大学に進学することにはお父さんは協力的だったのですね。

父は東京の大学に1年行っていたそうです。ところが、祖父が倒れたため、地元に戻り美容室を継がなければ行けなくなりました。父には東京への憧れがあったのかもしれません。

Q 東京での学生生活はいかがでしたか? 

横浜に住んでいる叔母のところに中学の頃から休みの間に泊まって過ごしていたので、全く不慣れというわけではありませんでした。大学入学時に両親の希望で大学紹介のカトリック寮に入り2年間暮らしました。20人くらいの寮生がいて、同学年同志仲が良かったのでホームシックにもなりませんでした。寮をでて一人暮らしを始めてからは、親の有難さを実感すると同時に、自由を満喫し生活も自堕落になったり(笑)。

Q 村上と東京の違いで一番印象深かったのはなんでしょう?

家の扉が固いことです。村上には昔ながらの町屋が残っています。実家が忙しかったので、私が小さいころ預けられた家が町屋の造りで、友達にも町屋の子がいました。町屋は軒続きで、誰でも土間まで入れます。子供の頃遊んでいて土間に入って裏庭まで通り抜けてしまったり。鍵のかかった家はなかったです。

ところが、東京では家の中に人を入れないですよね。どの家も扉の鍵がかかっていますし、誰か訪ねてきても玄関先の対応です。

また、村上は城下町で、武家の町、町人の町と地区が分かれていますが、私が暮らしていたのは町人の町です。この地区では町内の付き合いも多く、生まれた時からずっと知っている人同士というのが当たり前にいるんです。東京でも下町は違うのかもしれませんが、あまりそういう人間関係のことを聞きません。

Q 一生暮らすなら、どちらを選びますか?

どちらかといえば今住んでいるところでしょうか。まず夫が私の地元の環境に適応できるか、ということがあります。そして、二人の子供たちは今ここ(東京)で生活しながら色々な人たちと関わっています。今度は子供たちの「地元」を作ってあげたいです。

Q 大学院に進まれましたが、変化はありましたか?

結構、馴染むのに苦労しました。私の場合、大学入学前から大学院に行くと決めていたので、大学院に行くこと自体が目的化していたのも問題だったと思います。白百合大学院は発達心理を専門にあつかっていて、今では院試の時点で臨床のコースと研究のコースに分かれていますが、当時はコース分けがなく、研究志望でも臨床の単位を取ることが必須でした。私自身が研究目的で考えていたのも方向転換が難しかった原因でした。

学部とは全く雰囲気が違い、自分の中の切り替えも上手くいかなかったですね。大学に入ってからコントラバスを再開し、白百合の弦楽アンサンブルや慶応のワグネルソサイエティーオーケストラでコントラバスを弾いていました。大学院に進んでからもワグネルのOBオケでコントラバスを続けましたが、大学院ではみな勉強ばかりで、「音楽なんてやってるの?!」と言わることもありました。自分を含めて6人いた大学院の同期のうち3人は社会人経験者だったので必死さが違ったのかもしれませんが、違和感を覚えました。

また、論文を書くにあたって、指導教授を変更し、是非師事したかった先生についたのですが、思いもかけない修士論文テーマを与えられ本当に困りました。

Q どんなテーマですか?

「定年後離婚」です。当時ちょうど話題になっていたんです。指導をお願いした柏木先生が興味を持たれていたテーマでした。ただ、私にとってはそれまで全くやってこなかったテーマですし、新しい話題でしかも日本特有の現象だったので、国内の学術研究はおろか海外の文献もなく、まったくゼロからのスタートでした。週一回、先生の指導を受けるのですが、ある時、先生の話していることが全く理解できず目の前に宇宙空間が見えたときがありました(笑)。皆目わからないまま部屋をでて、先輩に先生の言葉の解釈の仕方を聞きました。

― 日本語なのに、そこまで理解不能なのはすごいですね。

はい。母親にも電話で、どうしよう、と言ったら、「それはその場でわかるまでとことん聞かないとだめでしょう」と言われ、納得したのを覚えています。

それから、被験者になる人を探して調査したり、必死で書き上げました。修了できないと困りますから。ただ、この体験を通じて、物事への取り組み方を学べたことは良かったです。

就職そしてすぐに転職

Q 高学歴プアという言葉もあるくらいなので、大学院卒の就職は大変だという印象があります。就職活動はどうでしたか?

周囲は教育相談員などになっていきました。自分は、心理学を勉強すればするほど人の心から離れていくような違和感を覚えて、この方向で進むことを疑問に思いはじめていました。心理から一度離れたいと感じ、OLになるなら新卒の今が唯一のチャンスだと思い、新聞広告で見つけた教育系の小さな出版社に就職しました。バイトから始めて4月に社員として採用してもらいましたが、一か月で辞めてしまいました。

Q 何があったんですか!?

社長が個性的というか。私が入った頃はちょうど予算を立てる時期だったのですが、社長が会計の社員さんに予算を作らせては、ダメ出しして叱責する毎日。社長も自分がやればいいのに、責めるばかりなので会計さんが泣いているんです。これはまずいと思い、前任者から引き継いだプロジェクトが完了したタイミングですぐに辞めました。

大学時代から参加しているオーケストラの先輩が紹介してくれた法律事務所に転職しました。最初はゴタゴタありましたが、前の職場を一か月で辞めてしまったので、3年は続けると決めて頑張って続けました。

この時、初めて心理と関係ない職場に入りましたが、自分が勉強してきたことが役に立つのが実感できました。

Q 法律事務所のお仕事をしながら、発達心理士としての活動を始められたのはどうしてですか?

私たち心理士の間では、発達障害と子育ての仕方には相関性がないことは明白なのですが、世間ではあまり知られていなんですね。教職免許を持っている同僚から、発達障害を「母親の育て方でしょ」と言われてびっくりしたこともあります。これは、修士まで修めた者としてちゃんとやらないといけないなぁ、と考えさせられました。

勉強は離れていると古くなってしまうので、活動の場所を持っていないとダメだと思い、修士1年から取り組んでいた地域交流を継続していこうと思いました。

発達心理士として活動開始

Q それが保育園を舞台にした地域交流事業ですね。

はい、ここではあまり親へのアドバイスに重点を置かず、親子で気軽に参加でき、親同士も交流し、子供たちも楽しく遊べる場を目指しています。「あそびの広場」という園庭開放事業ですが、毎回の広場後のミーティングで、気になった親子などについてスタッフ間で情報共有し、次回来所された時の対応を話し合います。その時に、発達心理学的な観点から意見を言っています。この活動で初めて子供にフォーカスしました。私自身は、いわゆる子供好きというタイプではないのですが、子供って面白いし自分に向いているかもしれないと思えました。

私にとって、実家が忙しい時に預かってくれたお母さんの存在が大きいんです。母が忙しい時にはお母さんが受け皿になってくれていました。お母さんの町屋の家に行くとそこを中心にした近所の付き合いもあり、自分のコミュニティーが二つあるかんじです。どうしてみんなお母さんみたいな付き合いができないのかな、東京で同じことができないかな、と考えています。地域交流事業には人が集まってくるので、その広場で同じようなことができたらいいですね。

Q お子さんが生まれて、発達心理士としてのお仕事に変化はありましたか?

保育園の地域交流事業は大学院時代からやっていましたが、当時は親御さんの相談に乗ることに自信がなかったですね。自分が子育て経験したわけでもないし。以前は、プロとして何か言わなくちゃと、気負ってアドバイスしていましたが、自分も親になってからは、親の気持ちや働く親の苦労に等身大で接することができます。逆に先輩のお母さんに教えてもらっています。

Q 今は法律事務所と地域交流事業の掛け持ちですが、将来はどのようになりたいですか?

今の法律事務所も結構長く勤めているので、私しか知らないこともあって完全に辞めるのは難しいです。収入も安定するので続けていくと思いますが、いつかは心理の仕事一本でやりたいです。交流事業でお世話になっている保育園で、3年前から保育のスーパーバイザーも担当するようになりましたが、せっかくこれまで色々見てきたので、何かないかな・・・と考えています。

Q 仕事と家庭の両立についてはどう考えていますか?

昔から結婚した自分をイメージできませんでした。自分が結婚できると思っていなかったし、小さな頃から自分は一生働くと思っていました。仕事は一生続けていきます。

今、子供を二人育てながら働いていますが、職場で子連れOKなのが大きいです。自分の実家からも義理の両親からも、家庭に入るようにというようなプレッシャーは特にありません。

地域交流は土曜日に行いますが、夫が長女を見てくれて、次女は子連れで出勤しています。夫の協力がなければ、地域交流のキャリアも断絶してしまいます。本当に感謝しています。夫が長女を連れて地域交流に遊びに来てくれることもありますが、長女も保育園で働く私の姿を受け入れてくれているようです。家族全員の、お互い様の協力と理解がないと、仕事と家庭の両立は難しいと思います。

Q これまで多くの女性に導かれた、とコメントされていますね。

仕事をしながら私たち姉弟を育て、今も働き続けている母、町屋のお母さん、小学校の時の佐藤先生、そして大学院で卒論指導してくださった柏木先生も、東京女子大で産休制度のない時代におんぶで出勤していたというすごい方です。地域交流事業でお世話になっている保育園では、学生時代に通っていた時の主任の方が快く迎えてくれて現場で育ててくれました。最初は無給でしたが、やがて時給もつけてくれました。私には人生の行く先を照らしてくれる何人もの“母・姉”がいた、と感じています。