渡部 句美子

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  • 年齢38歳

  • 出身地 埼玉県

  • 結婚 既婚

  • 海外経験あり

  • 職業 託児所・学童保育施設スタッフ、身体活動インストラクター

  • 勤務地 東京都

  • 会社名非公開

  • 出身校非公開

  • 専攻非公開

Image Title

3 Points

27歳までに3回転職

青年海外協力隊に参加し北アフリカでバレエ教師に。支援活動を通じ技術専門家に方向性を見いだす

結婚を機に移住したカナダで次のステップを考える

松野百合子

聞き手

松野百合子

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高校生まで

Q 最初に留学したのは中学生の時ですか?

はい、父の海外長期研修に同行しシアトルの中学校に半年通いました。中学3年生でしたが、英語があまりできなかったので、ESLがホームクラスになっていました。ロシア人、中国人、エチオピア人、ヒスパニック系など、クラスメートの国際色が豊かで、毎日刺激のある充実の日々でした。また、皆親切で、すぐに友達になり、そのなかでも家が近所だったラオス人の女の子とは、その後も彼女が若くして亡くなる35歳頃まで親交がありました。

就職

Q 就職活動のプレッシャーはありましたか?

(上智大学の)比較文化学部は帰国子女が多いせいか皆のんびりしていて世間で言うところの就職活動のプレッシャーは全く感じませんでした。私は、3年生の時に休学してNYにダンス留学していたくらいで、受かったらいいなくらいの気持ちで外交官試験の勉強をしていたのですが、当然受験準備が間に合わず、結局外資系投資銀行のソシエテジェネラルに入社し、新規事業の個人投資家向けオンライン取引サービスの開発チームに配属されました。日仏混合の10名弱のチームで和気あいあいとやっていたのですが、入社年の9月にニューヨークのテロが発生し、仏人経営陣が日本の個人投資家市場に見切りを付け、あっという間の事業閉鎖を迎えました。

Q 大変ですね。入社から半年で失業ですか?

はい。同社の別の部署に異動することも選択肢としてはありましたが、私の場合は会社都合のため退職金がとても多く、それを資金にして更に金融の勉強しに海外に出ることになりました。それでルクセンブルクに留学しました。

海外留学

Q どうしてルクセンブルクだったのですか?珍しい選択ですね。

自分で調べた中で、MBAのファイナンスだけを単科で履修できて、費用も抑え気味で、すぐに入学できるところとして米大学のルクセンブルク校を見つけました。実際、年末に会社を辞めて2月にはルクセンブルクにいましたから。

Q 留学体験満足いくものでしたか?

はい。単位も取れましたし、フランス語も上達しました。滞在中に現地の邦銀でインターンシップができたことも非常に良い経験になりました。

Q インターン先は現地へ行ってから探したのですか?

何もわからないので、とりあえず現地に支店のあった邦銀全部に履歴書を送ってインターンさせて下さいとお願いして。幸いそのうちの一行で働かせてもらいました。今でもその時お世話になった方々とは交流が続いています。ルクセンブルクでは1年半滞在し、帰国しました。

転職

Q 日本に帰ってからの仕事について不安はありませんでしたか?

ルクセンブルクにいる間に就職活動を始め、帰国後に日本の金融機関に就職することができたのでスムーズでした。インターン先とは違う銀行です。ただ、実際に勤めてみると銀行内部で、マネージメント陣を占めていた外資系派と、買収された旧邦銀時代から勤める行員らの間で、深刻なイデオロギーの違いがあり、これが原因で採用してくれた部長と先輩が転職し、配属されたチームに私一人が取り残される形になりました。そして私の中にも金融の仕事への違和感が芽生え、辞めることにしました。

青年海外協力隊参加

Q 辞めるにあたり、転職先のめどはあったのですか?

いいえ、失業保険をもらいながら、初心に帰って外交官試験を再度目指すことにしたので。しかし、根性が無いのですが、外交官試験で記述を求められる要点の暗記に辟易してしまい、どうしようと思った時に、電車内の広告で海外青年協力隊募集を知りました。しかも、職種に「バレエ教師」というのがあったんです。

Q バレエはずっと続けていたんですね?

はい、3歳から始めて、NYにダンス留学したり、ルクセンブルク留学中も現地のコンセルヴァトワールのバレエ課クラスを履修していました。派遣先のチュニジアはフランス語圏でしたし。この広告を見てすぐにネットで詳細を調べ、選抜試験に合格しチュニジアに2年間行くことになりました。独身の外国人女性ということで要らぬ注意を引いてしまうのか、町を歩くとかなりの頻度で知らない人から不意に揶揄されました。それでも途上国の開発・発展・安定を助けるという仕事の一端を担い、とてもやり甲斐がありました。また、自分の分野以外でも、水産資源開発事業などでお手伝いすることもあり、現場の技術専門家の仕事振りを垣間見て、今後の方向性を見た気がしました。

Q 大学卒業から波乱万丈ですが、ちなみにチュニジアに行った時は何歳でしたか?

27歳です。

Q 就職から留学、転職、アフリカへの協力隊での派遣などにあたって、ご両親の反対や心配はありませんでしたか?

なかったと思います。父は大学の教員をしながら、器械体操の国際試合の国際審判を務めていた人で、東欧やアフリカを含む国々での短期の滞在経験が豊富でした。私の外向き志向の形成に大いに影響しています。また、母は、娘が自分の知らない世界を見せてくれるのを楽しみにしているようでした。

基本的な信頼があったんですね。

転職

Q 青年海外協力隊での活動はそれまでの金融系のお仕事とは異なりますが、帰国後はどうするつもりでしたか?

チュニジアにいた時、自分の働き方として、スキルを切り売りできるような専門家になることが合っているのではないかと感じていました。英語・フランス語の能力に加えて、自分の専門分野が確立すると、国際機関などへの就職も可能になります。そこで、青年海外協力隊の後は大学院に進学するつもりでした。帰国後、東京日仏学院の掲示板でチュニジア大使館商務部スタッフの募集告知を偶然見かけ、大学院に行くまでのつなぎのつもりで応募し就職しました。ろくな就職活動ではありませんね(笑)。

 チュニジアという縁もありましたね。チュニジア大使館から、同じフランス語圏のベルギーの大使館の経済部に転職されています。

大使館はトップである大使の影響力が絶大なのですが、チュニジア大使館でも当時のトップの下、超人的な柔軟性が求められました。同じ時期に何名かの同僚が離職していきましたが、私の場合は突如の配置換えで大使付きの部署に異動させられたことから限界を感じ、経済部スタッフを募集していたベルギー大使館に転職しました。

転職

Q ベルギー大使館には、ご結婚でカナダに移住されるまで勤められましたね。お仕事内容は充実していましたか?

6、7年勤めました。チュニジア大使館では、主に貿易促進・投資誘致に携わっていましたが、ベルギー大使館では外交官と二人三脚で、二国間やEU・日本間の様々な合意や経済条約など政策的なレベルで貿易投資促進に貢献することに尽力しました。日本語を解さない上司に代わって、かなり高次な仕事を任されることもあり、求められるスキルセットが高かったと思います。しかし、人に恵まれ居心地が良すぎたのか、結果として大学院に行くのが先延ばしになってしまいました。

それでも留学を断行されましたね。

はい、1年間の休職という扱いで、イギリスの大学院に行かせてもらいました。そこでは、当時自分の専門分野として掲げていた「公衆衛生・身体活動と栄養」を専攻しました。ところが、修士取得時に35歳で、国際機関のジュニアポジションへの応募には遅く、うまく転職につなげることはできませんでした。また、職歴が専門分野とマッチしていないことも原因だと思います。

Turning Point

友人の死

Q 人生を変えたターニングポイントについて聞かせてください。

ある友人の死に直面したことです。彼女とはシアトルの中学校時代の同級生で、本当に仲が良かったんです。ラオスの名家の出身で、出版社を継いで女性の活躍を伝える雑誌の発行やドラえもんのラオス語翻訳出版を行い、ロハスな自転車カフェを立ち上げ、テレビ放送局のレポーターとして活躍しつつ、メコン川にまつわるラオスの文化を伝えるなど、社会意識の高い幅広い活動をしていました。フェースブック上で彼女の訃報に触れ、お葬式に参列するため彼女の祖国を初めて訪ねました。そこで改めて彼女の足跡を確認し、34歳という若さで、志半ばで、結婚したばかりのご主人を残して他界してしまったことがショックでした。それからは、「生きているんだから、できることはやらないと」、「たとえダメでもベストを尽くさないと」と思っています。彼女は、私より1歳年下でしたが、起業して「ゼロから1」を生み出す多くの活動を既に実行していたんです。 雇われの身では、本当に成し遂げたいことは置いておいて、お金や家族のために仕事をする面がありますが、起業家というのは本来のやりたいことにしっかり向き合って、自分を100%出し切るイメージがあります。

結婚退職―カナダへ移住

帰国後ベルギー大使館のお仕事に戻られ、しばらくしてご結婚を機に退職、カナダへの移住となりました

カナダ人の夫とは、東日本大震災直後のがれき処理ボランティア活動で知り合いました。大使館は円満退職で、結婚式の披露宴会場に大使館を使用させてもらいました。もちろん大使ご夫妻が主賓でした。

Q 結婚というのはキャリアを考える上で初めから意識していましたか?

結婚をあてにするなんてあまりにもギャンブルだと感じていましたが、子供が欲しいなら結婚第一に考える時期も必要だと思います。とは言うものの、私は、結婚しても、子供を産んでも、海外に移住しても、世界にどう貢献できるのか、キャリアを積み、研鑽を続けていきたいです。ちなみに、先日永住権が取得できたカナダでは、教会運営の託児所兼学童保育施設の先生という仕事に就くことができました。方向性を模索する中での一時的な職ですが、何を隠そう、自分の雑多なスキルセット(語学、ダンス、修士課程で得た専門知識)で得ることができた初めての仕事です。今後は、ここから発展させて、コミュニティレベルで既存の問題の解決に貢献できたらいいなと思っています。例えば、コミュニティへの移民の効果的なインテグレーションを促進する施策を練ったりする仕事も面白いと思います。カナダは移民政策で進歩的な国なので、学ぶことが沢山あると思います。

Q 人生のある時点に戻ってやり直したいと思うことはありますか?

いっぱいあります(笑)。例えば、大学院にもっと早く行っていればよかったです。あと数年早ければ、大学院で学んだ分野で国際機関等の専門家になれたかもしれません。あるキャリアの全体像が見えて、「いつまでにこれをしないと」を客観的にアドバイスをしてくれるメンターがいたら変わっていたかも、と思います。

Q 今はカナダで出産準備中と伺いました。これからのご計画について教えてください。アンケートで将来について漠然とした不安がある、と回答されていましたね。

それはもう、長い道のりになりそうで不安です(笑)。身体に関することには感覚を持っている自信があるので医療系で行くべきか、ジェネラリストに徹して公共政策などに進むべきか、悩んでおり、子供を産んでからも、もう一度学校に戻る必要性を痛感しています。

Q ここまでの歩みを振り返って、どんな思いですか?

私は、得に中学・高校時代に、大人の教えや社会で良しとされることを信用して、納得していないのに結局囚われていました。子供心に、大人の言う通りにしないときっと大変な事になるんだ、と恐れていましたが、今振り返ってみて、もっと若いときから自分の直観を信じて行動すべきだったという思いです。

まあ、大人だって子育てしながらわからないことだらけですし、そうやって不安感に訴えるくらいしか術がないという事なんですよ

え、そうなんですか!?

渡部さんも子育てされるとわかるかもしれません(笑)