小林 賢一郎

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  • 年齢39歳

  • 出身地 東京都

  • 結婚 既婚

  • 海外経験なし

  • 職業 ピアノインストラクター・調律師

  • 勤務地 神奈川県

  • 会社名ピアノ教室・調律工房「おとらぼ」

  • 出身校 洗足学園音楽大学

  • 専攻 音楽学科

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3 Points

幼少から楽器を始める。音大へ進学し演奏者の道に進むが、なぜ音楽を続けているのか分からなくなり一度離れる選択をする。 

会社勤めの中でも音楽で身に着けた能力が意外に役立った。

ピアノ調律師の世代交代に向けて、数値化、見える化、合理化にも取り組む。

インタビューの前に

学校、家庭、コンサートホールからホテルやレストランまで様々な場所にあるピアノのコンディションと音を整える調律師。いったいどんな作業をしているのでしょうか。ご自身がピアノ演奏者であった小林さんは、調律を学ばれ今はご自身の調律工房を運営する傍ら、専門学校で調律師を目指す後輩の指導にあたっていらっしゃいます。いったんは会社員となったものの、再び音楽の道にもどり調律を選ばれた背景や、お仕事内容について伺います。

松野百合子

聞き手

松野百合子

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幼少期 - 小学校時代

3歳から始めたピアノを毎日練習

Q. 小林さんの生まれ育った地元や幼少期について教えてください。

東京の吉祥寺です。駅周辺は繁華街ですが、自宅は比較的緑豊かな住宅街だったと思います。よく公園で外遊びもしましたが、ピアノのレッスンの時間になると自分だけ遊ぶのを止めて先に帰らなければいけなかったのが嫌でしたね。

 Q. ピアノは何歳から始めましたか?

3歳です。母親が自宅でピアノ教室をやっていたので、私も習っていました。母は私が「自分でやりたいと言った」と言うのですが、始めた時の記憶はありません。たぶん家にあるピアノを触っている時に「やってみる?」と誘われて、うんと言ったというような事だと思います。

Q. 小学校は普通に公立校ですか?

はい公立でした。

Q. その頃もレッスンは毎日ですか?

はい、放課後から晩御飯までの間、たぶん2~3時間くらいはピアノを毎日練習していました。何となく、音大を目指してプロの演奏家になるという目標を刷り込まれていたような気がします。そういうものだと思っていて、辞めるという発想はなかったですね。

中学時代

運動部に所属するも全く歯が立たない。 ピアノを弾いていれば認められる。

中学に入った頃は運動部に憧れていました。漫画週刊誌でバスケットボールをテーマとした作品がヒットした影響でバスケ部員が増えた時代です。入部したものの、身体も小さく全く歯が立ちませんでした。それに部員数があまりにも多いので、レギュラーで活躍するのは無理だと悟り、わりとすぐに辞めてしまいました。一方で、続けてきたピアノは自分にとって居場所を与えてくれるものでした。ピアノを弾いている時は皆が認めてくれる。たとえば合唱コンクールの伴奏、卒業・入学式など活躍の場がありました。

 Q. ピアノの練習は変わらず続けていたのですか?

続けていましたが、それまでのレッスンとは少し変わってきました。その頃は、ある程度まで自分で曲を仕上げてから母に聴いてもらい、助言してもらうようなスタイルです。中学生になり生活時間も変わりましたし、毎日というわけには行かなくなりましたが、中学の途中まではピアノの練習を続けていました。

 Q. ピアノは好きでしたか?

好きかどうか考えたことはなかったと思います。そうするのが当たりまえだから練習している、というような感覚です。好きなものは昔から音楽やスポーツよりも自動車の方で、プラモデルやラジコンに夢中になっていました。将来の夢も「バスの運転士」と思っていましたが、母に却下されました。子供の夢を「却下」って、ひどくないですか(笑)?こうあってほしいという親の理想があったのだと思います。

 ― なんとなく、小林さんが後に調律師を志向された理由がわかった気がしました。ピアノの調律は音楽、音という側面と、ピアノという機械を扱うメカニカルな側面がありますよね。

確かにそうですね。

 Q. 高校受験について教えてください

母親も地元出身だったので、学区も今と同じで、高校選びの時には色々教えてもらうことが出来ました。自分も母や叔母と同じく地元の都立高校を受験しました。

高校時代

部活での活躍を期待し吹奏楽部へ、トランペットを始める。アルバイトはガソリンスタンド。

Q. 高校生活はいかがでしたか?

それまでの窮屈な感じから解放され「俺は自由だ!」という気分でした。アルバイトもできる年齢になりましたし、高校は電車通学する程度には自宅から離れていて、親から離れて自由になった気がして楽しかったです。

 Q. 部活で吹奏楽部を選んだ理由を教えてください。

何か集団の中で活躍できるもの、という思いがありました。ただ中学の時バスケはダメだったこともあり、運動部は考えていませんでした。色々な選択肢がある中、音楽関係の方がレギュラーに入れるのではないかと考え、吹奏楽部に入部しました。入学祝いということで、両親にトランペットを買ってもらったことがとても嬉しかったのを覚えています。

 Q. これまでと違う楽器を始められてどうでしたか?

新鮮でした。ピストンバルブが3つだけという構造のシンプルさや、ピアノと違ってコンパクトで持ち歩けることもありましたが、何より光り輝く美しい銀色の楽器にケースを開けるたびドキドキしていました。もちろん初めは音を鳴らすことはできませんでしたが、ピアノをやってきたおかげで音感や練習の勘所はわかりました。早く上手くなりたかったので独学はせず、すぐ先生に師事しました。楽器演奏というのは、イメージした通りに体を使えるかがポイントだと思っています。譜読みもそうです。楽譜の情報を目から脳、脳から手先と伝達させる、いわば情報処理的作業なんです。

 ― 面白い考え方ですが、その通りですね。

音楽をやっていたことで、サラリーマンになった時にも応用出来たことは多々ありました。例えば合奏などの場合、全体を俯瞰しながら、自分のパートを演奏しますよね。分散注意力や自分の役割を瞬時に察知する能力が必要とされるんです。自分は音楽しかやっていないというコンプレックスがあったので、オフィスワークでも通用する能力があったことがわかった時は自信につながりました。

 ― それからコンクールなどでもご活躍されたんですね。

偶然、進学した高校が吹奏楽に力を入れていたんです。(注:小林さんの母校、都立杉並高校は全国大会での受賞歴がある吹奏楽の強豪校)実は、初めに目指していた高校が校舎改築できれいになり急に倍率が上がったので弱腰になり、近隣の偏差値が同じぐらいの学校に志望校を変更した結果ですから本当に偶然でした。

 Q. 高校になってアルバイトが出来るようになったことが自由を感じた一因とのことでしたが、どのようなアルバイトをしましたか?

バイトはガソリンスタンドです。屋外の仕事で夏は暑く冬は寒い、でも仕事環境がハードな分、高校生ができるバイトの中では時給が良い方でした。それに車が好きだったので、とても楽しく充実していました。自分で乗っていた原付バイクの整備もバイト先でしていました。

 ― それまでの外遊びを中断してピアノの練習をしていた頃と比べ、ガソリンスタンドで手を油で汚して働くアルバイト。イメージにずいぶんギャップがあります。

 それまでの自分を打ち破りたかったのかもしれません。実家は教師の多い家系で、何でもできて当たり前、一番じゃなければだめ、というプレッシャーがありました。その反動かも知れませんが、高校では自由になって遊んでしまい、学校もさぼりがちになっていきました。バイトに行く時間が増えて使えるお金も増え、友人に「お前、大学生みたいな遊び方してるな」と言われるほどでした。

 Q. そんな中、大学進学に関してはどうでしたか?

学校をさぼっていたため内申書が出なくて受験をする時期にまだ卒業見込みが立っていませんでした。当時のことはあまり覚えていませんでしたが、先日実家の整理をしていたら、当時の担任の先生からの手紙が出てきました。「終業式の日は来てくれると約束していたけど来なかったね。心配なので話がしたい。休み中もこの日とこの日は学校にいるから来てね。」という内容でした。相当迷惑をかけていたと思います。こんな手紙をもらったことも全く覚えていなかったです。最終的には「おまけ」で卒業させてもらいましたが、成績はオール2でした(笑)。

Turning Point

浪人時代

高校卒業後はフリーターのような生活。一念発起し音大を受験。

Q. 卒業後は進学や就職はどうするつもりでしたか?

卒業はさせてもらいましたが進路も決まっていなかったので、ガソリンスタンドで一日中アルバイトとして働くようになりました。いわゆる実家暮らしのフリーターですね。車の免許も取り、バイト代も増えたので遊びの幅が広がりました。親からは実家を出て自活をしろと言われましたが、当の本人はどこ吹く風と聞き流していました。

Q. 音大を受験しようと思われたのは何故ですか?

親から大学進学をしないなら出ていけ、と言い渡されたのがきっかけですね。いま思えば相当に不純な動機ですが、大学にさえ進んでおけば実家にいられるしもう少し遊べる、と考え受験を決めました。そんな理由で音大に行く人はまずいないでしょうね(笑)。高校の成績があんな状態なので一般的な大学は無理でも、音大ならそれまでの基礎もあるため今から頑張れば可能性があるのではと思いました。

Q. 音大での専攻はピアノですか?

いえ。トランペット専攻です。

ー 高1から始めたトランペットの方ですか!

吹奏楽部に入ってからはピアノを日課のように練習することはなくなりましたし、その代わりにトランペットを毎日練習し、プロオケの奏者に師事もしていました。正直ピアノとトランペットのどちらで音大を受験するかは迷いましたが、当時の興味の対象はトランペットでした。そして音大受験対策を始めました。音大の入試は専攻楽器の実技と、それ以外の総合力を問われます。ピアノやソルフェージュ、楽典といって音楽の基礎知識や調音等がありましたが、そのあたりは幼少期からの訓練でだいたい習得していましたので、実技に集中して頑張り合格することが出来ました。

大学時代

アルバイトと部活と夜遊びの日々。夢中で楽器に取り組めばよかった 。

Q. 見事、音楽大学に入学されて大学生活開始ですね。音大生の日常はレッスン漬けで多忙なイメージがあります。

確かに忙しいです。個人のレッスンに加え、オーケストラなど合奏の時間もあります。オーケストラの方は、本番までに何度かリハーサルの授業があって仕上げていきます。団体種目ですので絶対に穴は開けられないのですが、自分はさぼってしまったこともあります。本当に申し訳ないことをしました。当時の自分は調子に乗っていたところがあったと思います。自分の実力や要領だけで乗り切ろうとしていました。小さいことを積み重ねていくような努力を一切しなかった結果、4年後には入学時に自分より技術が低かった人に抜かれていました。

Q. 楽器演奏自体への思い入れはなかったのですか?

そのころは、楽しいことをする、楽しくないことはしない、というごくシンプルな行動基準で動いていました。自分にとって音楽をやる理由などは深く考えていませんでした。当然、その先についても全く考えていませんでした。

 

フリーミュージシャン時代

音大卒業後は大学時代からの延長で演奏の仕事

Q. 卒業後はプロとして演奏活動を始められました。どのような生活でしょう?

確かに報酬をいただいて演奏をしていましたが、プロと名乗ることについては抵抗がありました。自分よりもっとすごい人達がいることを知っていましたし、決して演奏の仕事一本で食べられていたわけではなかったので、おこがましいという気持ちが常にありました。

音大を卒業した人は皆、音楽関係に就職するのが普通と思われるかもしれませんが、実際はそんなことはありません。例えば法学部を出た全員が法曹界に進むわけではないように、一般企業へ就職する人たちもいました。当時はそういう人達を見て、せっかくこれまで続けてきた音楽を何で辞めてしまうの?と思ったものですが、今考えれば堅実な選択だったのかもしれません。私は学生の頃から、ピアノとトランペットの二足わらじでエキストラの仕事をぽつぽつとしていました。定期的に演奏させてもらえる場所もあったので、これといった就職活動はせず、その状態のまま演奏の仕事をずっと続けていけると思っていました。振り返ってみると、当時の私は音楽の世界、特に演奏で生計を立てていくことが本当に厳しいことだとは考えていなかった、あるいは現実から目を背けていたのだと思います。実際、音大の卒業生ほとんどは“無所属”の演奏家だと思います。

音楽をやめて金融機関に就職。サラリーマンとなる。

会社勤めで管理職になり自信も付いてきた。その一方で音楽関係の仕事をしたいという気持ちが湧いてきて調律の勉強を始めた。

Q. 結婚を機に人生設計を見直されたそうですが、具体的に教えてください。

卒業後はフリーの演奏家という不規則で不安定な状態が続きました。様々なオーディションを受けたり、声がかかれば演奏しに行くという生活です。演奏だけでは苦しいのでアルバイトもしていました。すでに妻と一緒に住んでいた29歳の頃、ふと「何で自分はかたくなに音楽をやっているんだろう?」という思いが湧いてきました。「音楽でなければいけないのか?」という純粋な疑問です。気づいたら音楽を長く続けてはきたけど、始めたきっかけも曖昧で「そういうものだから」と思って続けている自分に気づきました。好きで続けてきたつもりでしたが、本当にそうなのかよくわからなくなってきたのです。自問自答する中で、それは「特殊な職業への憧れだったのか」と思えたり、または「両親の期待に応えたいだけなんじゃないか」と考えたり。そんなことがあり、一度音楽と自分を切り離してみようと決心しました。自分を見つめ直すため、そして音楽だけしかやってこなかった自分が、一般社会でどこまで通用するのか確かめてみたくなりました。経済的な安定性という現実的な問題もあり、本気で考えるようになったのもその頃でした。

 Q. そこで金融機関に就職されたんですね。新しい生活には馴染めましたか?

就職したのは大手金融機関の関連子会社で、最初は時給制の契約社員としてスタートしました。生活はミュージシャンの時と全く違います。まず毎朝定時に起きて出かけるということからして変わりました。それは高校時代からできていないわけですから(笑)周囲からは「もって3日だ」と言われたりしました。職場でも「君は博打採用だ」と言われましたし、“ミュージシャンあがり”のやつは使えない、続かない、と揶揄されました。悔しい気持ちもありましたし、自分が一般社会でどこまで通用するのか確かめることも転職の目的でしたから、自分で証明して見返したい一心で頑張りました。やがて功績が評価され管理職にもなりました。他の同期が辞めていく中、私は9年間勤めることになります。

Q. 音楽から離れてみて変化はありましたか?

肩の力が抜けて「普通でいいんだ」と思えるようになりましたね。それまでは、自分は特別じゃなきゃいけないと思ったり、音大まで出たのだからその道を進まなければいけないと思ってしまったり、妙な先入観、相場観に支配されていたのかもしれません。それに企業に就職してみて、音楽で経験したことが意外にも他の仕事でも活かせる場面があると気づいたことも大きかったです。たとえば金融機関でマニュアルや資料を作ることもそうです。マニュアルは誰が読んでも間違わずにいけるよう、正確で簡素で使いやすくすることが大事です。やりながら気付いたのですが、楽譜を作る時とマニュアルを作る時で頭の使う部分がとても似ていると感じました。その作業は楽しかったですし、作ったマニュアルを使いやすいと褒められた時は気持ち良かったのを覚えています。

ただ、組織の中では「右へ倣え」的なところがあり、あまり「個」は必要とされませんでした。その度に自分の能力を生かし切れているのかどうか、自分が置き換え可能な部品になってしまったのではないか、と悩みました。ありがちな悩みかもしれませんが。

 ― ミュージシャンは個を出して表現しろ、と言われることと真逆ですから辛いですね。

そうですね。でも、そのうち9時5時の生活に慣れてきました。有給休暇というものを初めてもらい、収入も安定していました。そんな暮らしに馴染んでいる自分に、もう一人の自分が「それでいいのか?」と問いかけるんです。4~5年経つと根幹から自分が書き換えられていく感覚に陥り、顔つきまで変わってきたようでした。

久しぶりに友達に会うと「小さくまとまったな」「面白くなくなった」「何まじめなこと言っているんだよ」と言われました。最初に組織に入った時は、そこで働いている人たちが同じ顔に見えましたが、いつの間にか自分もそうなっていましたんでしょう。金融機関でも学びは多かったのですが、どこか苦しかったんです。実際大人数の組織の中で心を病んで辞めてしまう人もいました。自分も心をキュッとして緊張感を保っている状態が続き、やがて「オフスイッチ」が入らなくなってきました。その頃は、家庭にいる時も仕事のピリピリが抜けず、今思えば家族に対してもかなり厳しいことを言っていたと思います。月曜日になると会社に行きたくない自分を奮い立たせて出勤していました。

サラリーマンとしての社会人経験を積み、ある程度自信もついたので、せっかくなら音楽に関係のある仕事をしたいと思うようになりました。そこで、調律を習い始めたわけです。いきなりサラリーマンを辞めては生活できないので、5年計画で転職を準備しました。

Turning Point

ピアノ調律師を目指しサラリーマンをしながら勉強

音楽、そして機械いじりが好きな自分。たどり着いたのはピアノ調律師だった。家族がいたのでサラリーマンで収入を維持しながら夜間に調律の専門学校に通った

 Q. なぜピアノ調律を選ばれたんでしょうか?

もともとメカや車いじりなどが好きで手先が器用だったので、職人の仕事を調べました。時計職人や歯科技工士、ネイリスト等も調べました。そんな中、ピアノを習っていた頃からずっと見ていたピアノの調律師の仕事について考えてみたら、ピンとくるものがあったんです。音楽に関連していて、メカニカルであり、職人的であり、何より弾く側の事情も知っていることが強みになるはずだと思いました。

 ― 演奏家ではなく、裏方を選んだのですね。

はい。それはサラリーマン時代に知った、新たな自分の一面でした。それまで自分は舞台に上がる側の人間だと思い込んでいたのですが、本来の気質的には裏方の職人的な仕事の方が合っていると気づきました。

 Q. ピアノ調律師になるためには何が必要なのですか?

昔は弟子入りで丁稚奉公しながら学んだようですが、今は専門学校に通うのが一般的だと思います。始めは誰かに師事しようと思い「調律師 有名」などと検索したのですが、それらしいものが出てこなかったり、出てきても既に亡くなられた方だったりして、師匠の選び方がわかりませんでした。そして、調律工房の研修生募集、メーカー直結の専門学校などがあることを知りました。

すでに子供が一人いたので、1年間住み込み研修のメーカー直結専門学校は除外しました。いきなり会社を辞めて収入がなくなっては困るので、働きながら夜学ぶスタイルにしようと決めました。条件に合う渋谷の学校が見つかり、夜学で2年間通いました。

 Q. ピアノ調律師は国家資格ですか?

はい。それまで資格ではなかったのですが、国家資格である技能検定制度の一種としてピアノ調律技能士検定が平成23年度から始まりました。自分はその第一期の受験生で、合格率は15-20%くらいだったと思います。調律の勉強は面白かったですよ。一次の筆記試験を通過して二次の実技試験に進みました。筆記の半分は西洋音楽史や音楽共通の知識、半分は調律に関するものです。幸い一回で合格することができました。

サラリーマンとピアノ調律師という二足のわらじ

会社に通いながら夜や休日にピアノ調律の仕事をする日々。オールマイティな調律師を目指し、徐々に仕事を増やした。そして調律で一本立ちするタイミングが整っていく。

Q. 調律技能士としての仕事はどのようにスタートを切られたのですか?

サラリーマンを辞めるタイミングが難しかったこともあり、しばらくは会社勤めをしながら調律の仕事を少しずつ増やしていきました。調律で一本立ちしたのは最近のことです。調律の専門学校を卒業する時に、講師アシスタントの仕事もオファーされ、週に数回学校で授業もしていました。調律の仕事は、音大時代の友人からの紹介や、ホームページ経由で新規の方から依頼を受けるようになってきました。

調律師の中にも工房で中古ピアノの修理をして再販する仕事の人もいれば、外を回って調律する人もいます。そして外回りの調律の中でも家庭の調律、コンサートホールの調律等色々あります。オールマイティの人は少ないと思いますが、自分はそうあれるように全部引き受けています。自分で出来ないことがあっても一旦引き受け、出来る人にお願いし、横で学ばせてもらっています。

Q. 会社を辞める踏ん切りがついたのはどうしてですか?

辞めるタイミングは難しかったですね。サラリーマン生活も8年になり、固定給が当たり前になって居心地よい部分もありました。会社ではさらに責任ある立場になるタイミングだったというのが一番の理由です。今辞めないと辞められなくなると思いました。それに幸いなことに調律の仕事が順調に増え、有給を使わなければ回らないほどカツカツになってきたこともありました。住宅ローンを組めるチャンスはサラリーマンを辞めてしまったら二度とないということに気づき、家を買ってから辞めることにしました。

それまでは吉祥寺の実家で3世代同居していましたが、実家でもこれからどうするのか家族で話し合っていたところだったんです。妻との話し合いでも、引っ越すなら上の子供が小学校にあがる前が良いと一致していました。吉祥寺は住みやすい街なので、東京にこだわるとどうしても今より不便になってしまいます。そこで、東京にこだわらず海の方に行こうと思い、鎌倉、逗子、葉山などの土地を週末探しました。自分も妻も都会育ちなので、海や山、風、空といったものに漠然とした憧れがありました。そして今の土地を見つけ、家を建てて引っ越しました。

また、3人目の子供ができたので、一年間の育児休暇も取りました。ちょうど男性の育休制度が着目され始め、また育児手当が収入の2/3まで出るようになったので、勤め人として育休を取れるラストチャンスだと思いました。会社を辞めるかもしれない自分が育休を取ることに後ろめたさもありましたが、財源が雇用保険だとわかったので、払った分だけ頂戴するのならいいかなと。育休期間は自分の人生をリセットする機会でした。人生80年だとすると、40前の自分はちょうど折り返し地点に立っていました。

Turning Point

ピアノ調律工房「おとらぼ」を設立し独立

今は収入的には大変な時期だが、家族の理解に支えられ、住みたい場所に住み、やりがいある仕事で充実感のある毎日。演奏者としての経験を活かした調律の新たな可能性を追求していく。

Q. 会社を辞められてご自身の調律工房「おとらぼ」を始められました。独立してやっていくのは大変ですか?

下の子が小さく家内が共稼ぎできないので、収入的には今が一番大変ですが、今の生活に満足しています。住みたいところに住んで、好きな仕事をし、子供も溌剌としています。妻の理解があるから成り立っていると思います。

人生を送る上で、自分にとって一番核となるところを根本から快適にしていくべきだと思っています。自分にとっては家が一番のパワースポットであり、核となる部分です。仕事ありきではなく、生活ありきで人生設計をするようにしています。その根底がぶれなければ充足感がある生活になると思っています。今の生活を実現できて、自分はこれ以上ないくらい運がよく恵まれていると思います。

Q. 調律師として喜びややりがいを感じる時、また一番難しさを感じる時はどんな時でしょうか?

単純に汚れているものを綺麗にする喜びがあります。今は独立して1から10まで自分が携われることも幸せに感じます。大きな組織にいたときは、役割分担が決まっていて、なかなかエンドユーザーが見えないのが苦しかったです。今は、仕事が入るところから、お客様のところに伺っての作業を含め、営業からメンテナンスまで全て自分でやることができます。逆に言えば、やらなければいけない大変さもありますが。

現場でお会いするお客様の年齢層、シチュエーションも多様なので、いつも新鮮です。ピアノを弾くのがお子さんの場合も、プロミュージシャンの場合もあります。一般家庭の調律は1年に1回の人がほとんどですから、その場合は長い間維持できるように特に安定を重視します。ピアノの中をお子様に見せてあげたり、時には一緒に作業したり、楽しくやらせてもらっています。一方で、コンサート等の現場は安定はもちろん、その日その場所その演目のために音を作っていきます。あの待ったなしの緊張感はたまらないスリルですがとてもやりがいを感じます。演奏者、技術者双方の観点から納得できるまで詰めていくことができるのは嬉しいです。

― 演奏者としての経験に裏打ちされる部分ですね。

今現在、調律師の9割はピアノを弾けません。弾けなくてもできるというのが常識になっています。弾ける調律師の割合が増えたらこの考え方自体も変わるのかもしれません。もちろん上手に演奏できなくても問題ないですが、弾けるに越したことはないと思っています。

日本のピアノ出荷台数のピークは40年前くらいでした。それに合わせて調律師が養成されて、その時の世代が今70歳代くらいに差し掛かっています。ピアノの出荷台数が減る一方、その人たちがまだ現役で仕事をしているので、調律師の人口ピラミッドは逆三角形になっています。僕のような30代は少ないですよ。今は調律の技術が理論的に整理されてきていますし、国家資格制度もできたので、今後世代交代していくにつれ色々変わるはずです。今からの10年が勝負だと思います。

 Q. 調律に技術的な進歩はありますか?

ピアノの中の基本構造は変わらないし、デザインもそんなに変わりません。変わってきているとすれば、これまで職人の感覚に頼ってきたことが少しずつ数値化されてきていることでしょうか。音や感触が、感覚的に「良いね」と感じられたときに数値的に何が起きているのかを説明できるようになってきました。もちろん職人が経験と感覚によりそこにたどり着けるのは素晴らしいことですが、分析し、知っておくと透明性が高くなりますし、技術が進歩していくためには大事だと思います。

 Q. 今、特に取り組んでいることがあれば、教えてください。

世間の人に調律師という仕事をもっと知ってもらうため、依頼があれば積極的にメディアにも出るようにしています。自分が出るのはおこがましいのですが、広報的な役割ができればと思っています。近々「羊と鋼の森」という調律師を主人公とした小説が映画化されます。これをきっかけに話題になってほしいと願っています。

今後の取り組みとしては、調律の世界には曖昧なことがまだまだ多いので、これを整理したいと思っています。業界が比較的古い体質なので、あまり新しいことをしたがらないのですが、他の業界では当たり前でもこの業界にないものが結構あります。どこまで改革できるのかやってみたいです。

今が人生折り返し地点とお話ししましたが、後半戦も目標でいっぱいです。