中村 裕一郎

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  • 年齢45歳

  • 出身地 新潟県

  • 結婚 既婚

  • 海外経験あり

  • 職業 ライフプランナー

  • 勤務地 神奈川県

  • 会社名プルデンシャル生命保険株式会社

  • 出身校 中央大学

  • 専攻 英米文学

Image Title

3 Points

中学時代の夏休み、父親の単身赴任先の東京で地元との格差を感じる

「人間は同じことを繰り返す」高校、大学で所属コミュニティを去る葛藤

新入社員時代、一夜にしてプロ意識に目覚めた出来事

インタビューの前に

新潟県の糸魚川市出身、現在プルデンシャル生命保険株式会社でライフプランナーをされている中村裕一郎さんのインタビュー。中学生時代、お父様の単身赴任先の東京で夏休みを過ごしたことがその後の中村さんの考えに大きな影響を与えました。注目すべきエピソードとしては「不良社員」だった新入社員時代に経験したある出来事をきっかけに自分の仕事に対する姿勢が180度変わったという部分。「働き方」「生き方」を考える際に非常によいヒントになるでしょう。顧客ロイヤリティこそ正攻法である、という中村さん哲学は多くの方々にも参考になると思います。今回のインタビューはワークショップ形式で行いました。当日の様子も写真でお楽しみください。

岩田真一

聞き手

岩田真一

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幼少時代、地元について

Q. 中村さんの生まれ育った地域や幼少期について教えて下さい。

新潟県の糸魚川市という田舎に生まれました。海も山も近く自然に恵まれている場所です。ほとんどの家庭が共働きで、かつ三世代同居というのが定番のスタイルです。専業主婦という家庭はほとんどなかったと思います。自分の家も例にもれず共働きで、祖父母、両親、妹の6人家族でした。高校までは地元の学校で大学進学で田舎を出ていくというのが典型的なパターンになっています。

小学生

まだ外の世界を知らない頃。海にも山にも近い環境で育った。当時当たり前のように毎日食べていた新鮮な魚や山菜も、振り返ると恵まれていたと感じる

Q. 自然に恵まれている環境でどのように過ごされていましたか?

学校から帰ってきたらランドセルを置いてすぐに飛び出していくような毎日でした。野球もしましたが、川に行っては魚釣りやザリガニ釣り、山に行っては山菜採り、冬ならスキー、海に行って素潜りでサザエ採りなど。そういうことが遊びでした。現在は神奈川県に住んでいて全く違うので、当時を振り返ると恵まれていたと思いますね。

ー そのとき当たり前だと思っていたことの良さに後から気付くことも多いですよね

そうなんです。祖父が魚屋をしていたこともあり、その日地元で採れた新鮮な魚を毎日食べていました。当時は「今日の夕食もまた魚か」という感じで、どちらかというと魚があまり好きではなかったのですが、毎日新鮮な地の物を頂けるというのはとても贅沢な環境だったと思います。

Turning Point

中学生

バレーボール部に入ったが身長が低く苦労した。父親の単身赴任という大きな家族イベントが発生。父の赴任先である東京で夏休みを過ごし田舎との格差に衝撃を受けたのもこのころ。

Q.中学校はいかがでしたか?

地元の公立中学に進みました。中学では友達の誘いもあってバレーボール部に所属しました。ただ当時は身長が低く、いくら頑張ってジャンプしてもスパイクも打つことができずに苦労しました。

Q. バレーボールのようなスポーツは特に体格差が出ますね。そしてそのころ家族にとって大きな変化があったそうですね

はい。父が東京への単身赴任することになったのです。自分はまだ子供だったので家族会議のようなものに参加はしていませんが、夜遅くまで両親が相談している姿は覚えています。父は会社を辞めることも考えていたようでした。

Q. 結論としては東京への単身赴任の道を選ばれたわけですね。お父さんが単身赴任でいなくなるのは寂しくはなかったですか?

妹は寂しかったかもしれませんが、僕はどちらかというと母のことが心配でした。父の両親との同居していましたから、つらいことも多いのではと。父がいなくなったときは「僕が母を守らなきゃ」という意識がありました。

ー 中村さんは優しいお子さんだったのですね。


修学旅行

Q. そのお父様の単身赴任がきっかけで東京に行く機会があり、ある意味人生の転機になったと伺っています。詳しく教えていただけますか?

はい。父は夏休みや冬休みになると「東京を見に来い」と僕を呼んでくれました。3週間~1か月くらいの期間、父と一緒に東京で生活する機会があり、その間は東京の予備校に通うことになりました。

Q. それは地元の他の子たちにはなかなかできない経験でしょうね。どのような発見がありましたか?

地元では自分はちょっと勉強すればよい成績が取れていたので自信があったのですが、東京で受験勉強をしている子供たちの中に入ると、浮いてしまうほどの差がありました。予備校の先生からも随分プレッシャーを受けました。

Q. そんなに違いましたか

かなりショックでした。勉強のレベル差、情報へのアンテナの張り方などあらゆる面で田舎との格差を感じました。同時に自分自身のこれからを考えるようにもなりました。「このまま田舎で田舎の仲間と同じことを続けていたら、東京で頑張っている子たちには絶対に勝てない」と強く思うようになりました。そういう思いもあって、その頃は田舎が好きではなくなってきた時期でした。

Q. 東京を知ってしまったが故の葛藤があったのですね

中学2年生くらいからそのギャップで悩みましたね。東京から田舎に戻るときも「またあの環境に戻ったらダメになっちゃうんじゃないか」と。東京を知らなければそれなりにハッピーだったはずですが、知ってしまったら今までの気楽でハッピーな生活をすればするほど将来への不安が増してきました。自分はどうなっちゃうんだろう、と。

ー 東京と地元を同時平行で交互に過ごすという貴重な体験を通して、将来に対する意識が高くなっていったのですね

東京を見せてくれた父に感謝しています。それまではそれほど努力をしなくても勉強はできるものだと思っていましたが、意識が変わりました。その時の体験はあらゆる面で自分の原点となっています。

Q. お父様が「東京を見に来い」とおっしゃったのはどのようなお気持ちからだったのでしょうか?

自分が言うのも何ですが父親はとても勉強ができて、入社した会社でも入社スピーチをするような人でした。ただ田舎の長男だったので、大学には行かずに地元で就職し二人の弟を自分の給料で大学に通わせました。我々の地元では、長男が家に残り、次男三男は家を出なくてはいけないという暗黙の了解があります。ですから長男だった父自身が行きたくても行けなかった大学への夢を僕に託したんだと思います。東京への単身赴任を決めたのも、自分に世間を知ってほしいという思いがあったからだと思います。

ー そうだったのですね。中村さんの将来のことを真剣に思いやるお父様の思いに感動してしまいました。

高校受験

Q. そんな中で高校受験を迎えることになります。いかがでしたか?

地元の普通科の高校へ進学しました。地元には3つしか高校がありません。他は商業科の高校と水産科の高校です。進学を考えた場合は一択になります。東京の予備校に行っていて本当によかったと思います。

Q. 東京の高校に行きたいという風には考えませんでしたか?

そのころ父が大阪に転勤になっていたこともあり、さすがに高校から東京に出ようという発想はありませんでした。

高校生

バレーボール部でレギュラー獲得も、大学受験との両立は周りに同じ境遇の友人もおらず葛藤が続いた

Q. 高校でもバレーボールを続けたのですね?

はい。その頃身長も伸びてきたので、高校でしっかりやろうという気持ちでした。中学では試合にも出られなかったのでまずはレギュラーを目指しました。幸い一生懸命練習していたら1年の時からレギュラーになることができました。

Q. 1年生でレギュラーはすごいですね。そのままバレーボール漬けの毎日ですか?

新潟県の中でもとても強い学校でしたし高校2年生までは文字通りバレーボール漬けの日々でした。ただ、3年生になる頃、大学受験のことを考えると不安になりました。

Turning Point

大学受験

Q. 中学時代に東京の予備校で感じたギャップや不安がよみがえってきたのでしょうか。

そうなんです。このままでは大学受験で失敗すると思いました。一番辛かったのは周りにこのことを共有できる友人がいなかったことですね。彼らが知らない受験の厳しさを自分は知っている。このままではどの大学にも入れない、という焦りがありました。

Q. それは辛いですね。受験勉強とバレーボール部の両立は難しかったのでしょうか?

その頃父が再び東京に転勤になっていたので、また1か月間東京の予備校に行きたいと思いました。ただしバレーボールの視点で見ると、高校3年間で一番ピークの時期なわけです。周りにもそんなことを言い出す人もいなかったですし、自分としてもバレーボールを最後までやりたいという気持ちもあったので、ものすごい葛藤がありました。

Q. もし良い予備校が通える距離にあったら違っていたかもしれませんね。バレーボール部の監督からは理解は得られたのですか?

監督に一か月予備校に行かせて欲しいと伝えたところ「行ってもいいが、その代わり試合には出さない」と言われました。ですから頑張ってきたバレーボール部の最後の試合には出られていないんです。

Q. 辛いなあ。でも中村さんは偉いと思います。自分の将来を考え、周りに流されず、自らを律して決断したわけですから。孤独感もあったと思います。振り返ってみてその時の決断をどう思われますか?

3年間バレーボール部を全うして最後の試合にも出て、そして受験する大学のレベルを下げるという道もあったのかな?とは考えたことがあります。ただその当時の自分には他の選択肢はありませんでした。その後、バレーボール部のメンバーとお酒を飲んだりするようになるまでには時間がかかりましたが、今は皆理解してくれていますし、良い決断だったと思っています。

大学生

東京の私立大に進学。体育会並みに厳しいテニスサークルでテニスに打ち込む毎日。そしてまたしても大きな決断を迫られることになる

Q. 大学ではテニスをされていたそうですね

テニス一色という毎日でした。サークルなのですが、中にはプロになる人もいるくらい厳しいサークルに所属していました。飲み会もあまりなく、合宿もノンアルコールで9時消灯です。「参加することに意義はなく、勝つことに意義がある」を地で行くサークルでした。1年生はボール拾い、声出し、走り込みという典型的な厳しい練習をしていました。そしてキャプテンになる人は練習と運営の忙しさで留年することも多かったです。

Q. そんなテニス漬けの毎日に変化があったそうですね

大学で帰国子女の友人から海外の話を聞いて、猛烈に海外に行ってみたくなったんです。ちょうど中学時代に東京を見て東京に大学に行きたいと思ったのと一緒ですね。今度は「このまま日本にいちゃいけない」と。

成人式

Turning Point

オーストラリアに留学

テニスサークルの最後の1年を休学しオーストラリアに留学。高校時代のバレーボール部のときの記憶が蘇る

Q. 高校時代と同様に、今回はテニスを続けるという「今」と海外留学の「将来」の間での葛藤ですね。

「人間は同じことを繰り返す」とよく言われますが、自分を見て本当にそうだなと思いました。高校時代あれだけバレーボールと受験勉強の両立で苦しんだ末にバレーボールを全うできないくやしさを味わったのに、大学でもそれとまったく同じことを今度はテニスと海外留学という選択を迫られることになったわけですから。「今」を取るか「将来」を取るか、という選択です。そして結果的に常に自分は「将来」の方を取るんですね。そうして、父親にも相談して、オーストラリアに海外留学することに決めました。大学4年間の集大成となるこの時期、一番仲間と協力して運営しなければいけない時期にサークルを離れ、休学することになりました。

Q. 全く同じ状況なんですね。でもそもそもその葛藤は一生懸命取り組んでいるから生じる葛藤ですよね。いい加減にやっていたら葛藤は起きませんから。そして常に自分の将来を考えて決断を下しているところがすごいと思いました。

その時はサークルの役員の打診も受けており、それも辞退した上での留学でしたから複雑な気持ちでした。みんなが熱い時間を過ごしていると思うと後悔する気持ちもありました。

Q. 大きな犠牲を払ってつかみ取ったチャンスですから、より集中力が増すのではないでしょうか?

そうですね。高校のときも最後の試合を犠牲にして受験勉強したので集中していましたし、この留学も同様に真剣でした。

Q. 留学はいかがでしたか?期待通りでしたでしょうか?

実は留学先のUniversity of Queens Landは規模が大きすぎて、かつ自分が勉強したかった英語だけではなく文学などもやらなければならず、4か月くらい経った頃にTAFE(Technical And Further Education。専門学校のような学校)を受験して転校しました。

Q. 目的がはっきりしているから行動が早いですね。TAFEの授業はいかがでしたか?

自分を入れて日本人は3名くらいしかいない場所ですから、日本人と話すことはおろか顔を合わせることすらほとんどない環境でした。それは英語に集中するためにはとてもよかったです。またクラス単位も小さく授業は10人程度で行われるため、自分が発言しなければならない頻度も多く大変でしたがとても有益でした。

Q. 当時のオーストラリアは日本人に対してはどのような印象を持っていたのでしょうか?特に日本人が少ない地域では差別のようなことはありませんでしたか?

その当時日本はバブルの余韻があり、みんな日本のことを知りたがりました。ソニー、任天堂、日本の自動車メーカーなどについてよく聞かれました。それに日本語の授業も人気がありました。日本語ができれば仕事に就ける、そんな雰囲気もありました。ただ確かに日本人が少ない地域では差別も感じました。現地でテニスの試合に出場したところ、コートチェンジですれ違う時にひどいことを囁かれたり、試合後に握手してもらえなかったり、石を投げられたこともありましたね。

ー バブル全盛期は過ぎていても、まだ日本語の授業が人気があったというのは意外でした。それと差別のようなことは今でも時々聞きますが、地域によってはまだ存在するという事実を知っておくのは大事です。

就職活動

就職はせずにロンドンの大学への留学を考えていた。しかし留学費を稼ぐために始めたアルバイト先の英会話スクールに就職することに。

Q. 就職活動について教えてください。

留学を終えて「5年生」として復学しました。案の定、同期のテニスサークルのキャプテンは留年しており(笑)同じ学年になりました。その頃は更に英語を勉強したいという意欲が増していて、周りが就職活動をする中で自分はロンドンの大学を受験していました。入学許可証も取得することができました。周りは就職活動しているし、留学費用の足しにと思って英会話スクールで講師のアルバイトをすることにしたんです。全く就職する気はありませんでしたから、履歴書の写真もセーター姿でした(笑)。

ー 中村さんのお話を聞いていると中学時代から変わらず、まったく周りに流されないところが凄いですね。才能だと思います。

Q. 最終的に留学はされなかったのですね?

そうなんです。アルバイトで入るつもりだった英会話スクールから「正社員として来ないか」と言って頂いて最終的にはそうしました。まったく就職する気がなかったので、方向転換になりました。その後はその会社で8年間お世話になることになります。

Q. 決まっていた留学を中止して、就職に切り替えた決め手はなんだったのでしょうか?

友人たちが社会に出て活躍しているのを見て、自分もいつまでも親のすねをかじっていてはいけないな、という思いもあったんです。オーストラリアへの留学でも親にお金使わせてしまっていましたので。

Turning Point

就職:大手英会話スクール

社会の理不尽さに不満があった。そんな「不良社員」だった新人時代に中村さんを180度変えたのは上司の中村さんを思う気持ちだった

Q. 社会人生活が始まりました。どのような滑り出しでしたでしょうか?

まだ新卒の世間知らずだったこともあり、理不尽だなと感じることが多かったのが正直な印象です。例えば東京での新人研修が終わって配属先が発表になる日に「明日から新規オープンする秋田校に行ってくれ」と言われて急遽荷造り、その後も週休二日のはずなのに、なぜか僕の授業は月曜日から土曜日まで埋まっていたりと。そんな不満もあり態度の悪い不良社員だった思います。実際に上の人からは「辞めてもらったら」という話まで出ていたようです。

ー 社会人になると理屈じゃない部分も多くなってきますからね。学生時代は理路整然と行われていたことが社会になると通用しなくなるという現実は多くの方が経験されていると思います。理不尽なことに慣れるより、理不尽だと思える気持ちを維持するのもある意味大事な気がしますが、その一方、民間企業は経営が傾くと社員も困るので(会社が儲からなければ給料が増えなかったり、ボーナスが少なかったり、事業縮小の影響を受けたりします)ある程度お互いに吸収し合いながら最適化していくことが重要なんですよね。


Q. そんな中村さんの仕事に対する姿勢を180度変える出来事があったそうですね

はい。ある日の夜オフィスに残っていると、当時の上司が本社の人と電話で話している声が聞こえてきたんです。その上司は当時講師ではなかったのですが、自分も講師になる研修を受けさせて欲しい、と相談していました。何故だろうと思って聞いていると、どうやら彼女も講師になり、1日でも授業を受け持つことが出来れば、僕に休みを与えられると考えたらしいのです。その時ですね、全てが変わったのは。それまでは「こんなのおかしいじゃん」という文句ばかりだったのですが、それを聞いて「自分はなんてことをしていたんだろう」と反省し、その時から猛烈に前向きに仕事に臨むようになりました。

Q. 中村さんのことを心配してくれる良い上司だったのですね。具体的にどのように意識が変わったのですか?

それまではとにかく反抗的だったのですが、その上司の電話を壁越しに聞いてから過去に上司がしてくれたことを一つ一つ振り返って考えてみて、やっと理解できました。その瞬間に一気に「当事者マインド」が芽生えたというか「経営者側の視点に立つこと」が出来るようになりました。

Q. 人は文字通り一夜で変わるものですね。ちょっとしたきっかけが人生のターニングポイントになるんですね。その出来事を堺に毎日の充実度も変わったんじゃないですか?

そうですね。それからは毎日が全然違いました。逆に「年間で何日休んだかな?」というくらい仕事をしていました。

ー 仕事時間を減らすことだけが幸せになるとは限らない。プロ意識を持って前向きに取り組むことで人はより幸せに充実感を持って過ごせる。このことは多くの日本人に浸透していってほしいと僕は思っています。

Q. それにしても新人で新規オープンのスクールに配属されたということで、様々な経験をされたんじゃないですか?

ちょうどその頃、ラジオCMを打つことになり僕が担当になりました。すでにやる気スイッチが入っていたので、CMでは熱く宣伝しました。すると今度はローカルのテレビ番組に出演することになりました。「なんでもアリーナ525」という夕方5時25分から放送される番組で、東京の「夕やけニャンニャン」の秋田版ですね。中高生はみんな帰宅してその番組を見ていました。そこで隔週のレギュラー出演をするようになり、毎回7分の英会話レッスンコーナーを担当させてもらいました。

Q. もしかして秋田では有名人ですか?!

はは。お陰さまでお客さんの獲得には効果ありました。説明会にお子さんと一緒にきたお母さんが「テレビ見てるわよ」と言ってくれたり。上司が捻出してくれた休日はテレビ局での収録に当てていました。約2年ほど続きました。

Q. 秋田校の業績はいかがでしたか?

オープン当時、つまり僕が配属された当時はとても厳しい状況でした。入社3年目には僕がマネージャーになり陣頭指揮を取ることになりました。ただ僕は当時転勤したいスクールがあったので、もし1年で黒字化したら転勤させて欲しい、という条件を付けました。

Q. 早くもマネージャーですか。経営者マインドで仕事に取り組まれていたことが評価されたのでしょうね。公約通り1年で黒字化できましたか?

できたんです!例のTV出演していたときの知名度も役に立ったように思います。

Q. 有言実行素晴らしいですね。約束通り希望のスクールへの異動は叶いましたか?ちなみにどちらのスクールを希望していたのですか?

はい。ちゃんと約束通り行きたかった茨城県のつくば校へ異動させてもらいました。

Q. 何故つくば校が良かったのでしょうか。

規模が違いました。秋田の5倍のペースで成長していて生徒の数も物凄く多かったんです。そこをもっと伸ばしたいと思いました。研究学園都市として、英語が学会で必要になる研究者の方や大学生も多いので、それぞれのニーズに合った授業設計をして着実に業績を伸ばすことが出来ました。

ー すごいですね!ここでも有言実行。そしてその中村さんのご活躍はすべてたまたま壁越しに聞こえてきた上司の電話を聞いて目覚めた「プロ意識」が根底にあるということですね。僕は最近仕事で幸せになる秘訣は「プロ意識」にあるんじゃないかと思っています。とても参考になるお話です。

転職:プルデンシャル生命保険株式会社

プルデンシャル生命保険株式会社からオファー。Honest Business と Full Commission に惹かれて転職を決意する

Q. 数々の業績を打ち立ててきた大手英会話スクールを辞めて転職することになりましたが、その経緯を教えて下さい。

東京の本社にいた頃に突然プルデンシャルの採用担当者から電話がかかってきたのです。どうやら会社案内に載っていた僕に関する記事を見たようでした。

Q. プルデンシャル生命保険株式会社に転職することを決めた理由について教えてください

プルデンシャルの決め手となったのは「Honest Business」ということと「Full Commission」の2点です。それは英会話スクールで仕事をしている時に感じていた自分の中の矛盾を解決してくれると思いました。

Q. 具体的に Honest Business と Full Commission について教えてください。

「Honest Business」と言っているのは簡単に言うと「自分がお客様だったとしても欲しい!」と思える商品を設計&提供できることです。プルデンシャル生命の企業理念は本来の保険のあるべき姿「困っている人にお金を届ける」という相互扶助の精神に則っているし、謳うだけではなく実践していると思いました。それと「Full Commission」とは基本給ゼロという意味です。全てが自己責任。自分にはアシスタントがいますが、その人の給料も自分が払うことになります。でもその分ノルマもない。与えられた仕事だと愚痴や文句も出てしまいがちですが、すべての責任は己にあり、という方が前向きに仕事は出来るんだと思います。働いている人たちを見ても皆キラキラしているように思えました。

現在:プルデンシャル生命保険株式会社

今年で15年目になるプルデンシャル生命での勤務。ライフプランナーというお客様との関係がずっと続く仕事に最も大切なこととはいったい何か

Q. 生命保険のライフプランナーというお仕事の特徴はどんなところでしょうか。

やはりお客様との関係がずっと続くことだと思います。その方が亡くなるまで、そして亡くなったあとも相続のお話もあります。そしてお子様がいらっしゃった場合は、時に進路相談もしたりします。例えば、今自分の髪の毛を切ってもらっているのは、自分が一番最初に保険金をお届けしたときに小学生だった子です。お父様が46歳でお亡くなりになりました。その子は保険金で美容師の学校に行くことが出来て、今年美容師に2年目になりました。

Q. それは特別なお仕事ですね。お客様との長い関係がありますから、たしかに Honest という事が大事になってくるのでしょうね。

ずっと真摯にお客様とつながっていける仕事です。一回限りのキャンペーンでお客様を集める、というモデルとは違います。

Q. そのようなお仕事をされる中で、中村さんが最も重視していることはなんですか?

そうですね。何を基準にして自分の座標軸を決めていくかをずっと考えていて、たどり着いたのは「顧客ロイヤリティ」ということでした。つまり、お客様に必要とされて、信頼できる人間だけがこの仕事で成功していくのだろうという哲学のようなものです。それ以外にはないと思います。

Q. なるほど。長期的に成功し続けるために必須の「顧客ロイヤリティ」は、抽象化すればどんな仕事であっても当てはまる基盤のような気がします。ところで、実はこの未来スケープのオススメでご紹介させていただいている「Give & Take」という本を僕に紹介していただいたのは中村さんです。とても感謝しています。この本との出会いを教えて頂けますか?

「Give & Take」は僕のバイブルのような本です。出会いは勉強会仲間だったBeBitの遠藤社長から勧められたことです。読んでみて「まさにその通りだ」と思いました。事例が豊富で皆さんにお勧めします。

中村さんのバイブルとも言える GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代 (ADAM GRANT)

Q. お陰さまで僕も大好きな1冊になりました。僕は中村さんと知り合って2年ほど経ちますが「Give & Take」を読んでみて「ここに描かれている Giver とは中村さんのことだな」と感じました。僕も大いに参考になり実践してまいりたいと思っています。本日は気づきポイント満載の人生ストーリーを共有して頂き、どうもありがとうございました。

ありがとうございました。