塚田 祐子

0015

  • 年齢53歳

  • 出身地 東京都

  • 結婚 独身

  • 海外経験なし

  • 職業 ヨガインストラクター

  • 勤務地 東京都

  • 会社名ルビーホットヨガ&リラクゼーション

  • 出身校 成蹊大学

  • 専攻 文学部 日本文学科

Image Title

3 Points

女子校が嫌だった

バイトで十分だと思い就職活動はしなかった

47歳で初めて自分の意志で決断。フロリダへヨガ研修

インタビューの前に

ターニングポイントであきらめる理由を探さない。周囲の期待に応えるばかりの人生が、自分ひとりの気持ちで決断したことで動き出した。

松野百合子

聞き手

松野百合子

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子ども時代~高校時代

Q 地元のことや子供時代について教えてください。

生まれたのは杉並区永福町ですが、これまでに10回は引っ越ししています。子供の頃は杉並区、世田谷区が中心でしたが、成人してから浦和や練馬にも住んだことがあります。今の住まいに越したきっかけは、ここでホットヨガスタジオを始めたことです。

幼稚園から小学校低学年までは、3月25日生まれという早生まれのハンデがあり、周囲についていけませんでした。幼稚園の頃は、食べ終わるのも、移動するのも最後で、母に「私が遅いんじゃないよ、みんなが早いんだよ」と言うマイペースの子だったそうです。幼稚園から高校まで一貫のミッション系女子校に入れられたのですが、そんな落ちこぼれの私を可愛がってくれたシスターがいました。

実家が自営業で両親とも働いていて家にいないため、おばあちゃん子でした。小学校高学年の頃には親にあてにされて、嫌々ながら家事をしていたので、結構自立心があったと思います。

親に入れられた女子校は嫌いでした。私は昔からサバサバした性格で、女子同士の陰口が大嫌いだったんです。また、先生に怒られても決して泣かない、しおらしくない子どもだったので、親がよく呼び出されていました。高校で都立高校を受験したいと言った時には親も了解してくれましたが、小学校時代にかわいがってくれたシスターに引き留められて、結局そのまま内部進学しました。高校はそれまでより自由になり、女子校ならではの友達との楽しい時間も多く、あっという間でした。

Q 通っていらした女子校は高校までです。受験についてはどう考えていましたか?

私の学校は進学校で、クラスが成績で分けられていました。私は常に「そこそこ」の万年B組(笑)。そんな環境なので、進学するのが当たり前で、高卒で働くという同級生はいなかったように思います。私は、とにかく早く就職がしたかったのと、当時は短大の方が就職に有利だったことから短大志望でした。ミーハーなので、人気のブランド女子短大、学習院、青山、東京女子を目指し、短大受験コースの塾に通いました。

指定校推薦の枠が張り出されても全く興味がなかったのですが、国語の先生から強く成蹊大学の日本文学科に出願するように勧められたんです。成蹊は自宅から近く、また伯父さんが成蹊で教えていたことから馴染みがありました。推薦入試なら半年受験勉強をしなくて済むというのも魅力で、一回は断ったものの、最終的に推薦入試で合格しました。4年制に行くならミッションスクールでないところ、共学という希望には合っていました。

Q ご両親は進路についてどのようなご意見でしたか?

父は自分の趣味に没頭していて、私の進路については全く興味がありませんでした。だから、「短大に行く」と言えば、「そうですか」、「短大はやめて成蹊に行く」と言えば、また「そうですか。」という感じでした。

大学時代

Q 大学時代について教えてください。

当時は女子大生ブームで、JJ、キャンキャンなどの雑誌が出てきたり、女子大生というだけで注目された頃です。ディスコはどこでも女性はタダで入れました。

私は、大学のミニコミ編集会に勧誘されるままに入り、年数回キャンパス誌を発行する活動をしていました。学校のことや、キャンパスのある吉祥寺の町の取材などして、当時はすべて手書きの原稿を印刷して発行していました。それ以外は、テニス、スキーなどを楽しみながら、あっという間に4年間過ぎてしまいました。あの頃は大学では勉強している人が少なかったんじゃないかな。勉強している人も一部にはいたと思いますが、大多数はエンジョイしていたように思います。

Q 就職活動はいつから始めましたか?

実は、就職活動は全くしていません。大学在学中にアルバイトを色々しましたが、洋服屋さんのバイトが楽しくなり、このままバイトを続けてもいいと思っていたんです。周囲は就職活動していましたが、私は何もせず過ごしていました。

そうしたら、2月になって大学の就職課から電話があり、状況を問われるままに説明すると、「あなた、それはダメですよ。すぐに2次募集を受けに行きなさい。」と言われ、急に千鳥ヶ淵の飛島建設本社に入社試験を受けに行くことに。形ばかりの試験と面接で、合格してOLになりました。

就職

Q アルバイトでいいと思っていたのに、いきなり準大手ゼネコンで働くことになりました。お仕事の内容はどんなものでしたか?

飛島建設で私が配属されたのは、情報システム部でした。プログラミングを勉強させられて、日立の講習会などにも行きました。情報処理技術者試験を受けて資格も取ったんですよ。もう使えないですけど。

飛島建設は当時バブルの恩恵に預かっていました。土木部が花形で、大型受注が決まると、館内放送があり、全社員に「四谷若葉」の鯛焼きが配られたりしていました。女子社員については、入社式で男性社員に「本社にいる間にこの中からお嫁さんを探すように」という趣旨のことを明言してしまうような環境でした。今はアウトですよね。

結婚・退職・転職

飛島建設に5年勤めた後、社内結婚して退社、専業主婦になりましたが3日で飽きてしまいました。仕事を辞めてから半年後にはアルバイトを始め、当時ブームだった宅建資格を学校に通って取りました。再就職し、インテリアコーディネーターの資格もとって、活動を始めましたが、結構ハードな仕事で、それだけでは生きていけないのが現実でした。インテリアコーディネーターと重なる部分の多い2級建築士の資格も取り、リフォームの仕事が増えたのですが、その会社が倒産してしまいます。

30代半ば不動産会社に再就職し、10年以上勤めました。そこは投資用不動産を扱うところで、待遇が良く、宅建手当もつきました。ところがだんだん投資が難しくなってきて、事業内容が古くなったマンションのリフォームに変わっていきました。私は建築士の資格とリフォーム経験があったので、そちらのウエイトが高い仕事をさせてもらっていました。この頃、お互い自分の仕事と趣味中心になって一緒にいる価値を見出せなくなっていた夫とケンカすることもなく円満に離婚しました。

ヨガとの出会い

Q ヨガとの出会いについて教えていただけますか?

ヨガを始めたのは41歳の時です。当時は不動産会社の社員でした。最初はダイエット目的です。離婚した後、友達3人で一軒家を借りて住んでいて運動もせずに飲み食いしていたら太り始めてしまったので、友達が見つけてきたホットヨガを一緒に始めました。ここが結構きつくて、今自分が主催しているスタジオは岩盤で温めるので室温を押さえていますが、当時通ったスタジオはヒーターで部屋を暖めるタイプで、室温40度、湿度65%がうたい文句です。最初に受けた90分クラスは、まだ体も固かったし、何もできず半分くらい休んでいました。私はもう無理だと思ったのですが、友達が続けるというので、引っ張られるように入会しました。私は、習い事などは一旦始めると長く続けるタイプなんです。最初はただ辛いだけでしたが、半年経った頃から少し変わった気がして、ヨガ自体が楽しくなりました。体重も減り始め、1年で10キロ痩せました。当時の写真を見ると、痩せすぎでちょっと気持ちが悪いです。自分でもヨガホリックと認める状態で、1年に370回ヨガのレッスンを受けた年もありました。そんな生活を3年くらい続けました。ホリック状態から抜け出したきっかけは、ヨガを仕事にしたことです。ヨガのおかげで精神的にはものすごく安定したと思いますが、ヨガスタジオをやっていると他の世界と接点が少なくなるので、生活のすべてがヨガになるのは良くないと思っています。

Turning Point

バーカンメソッドとの出会いからインストラクターに

Q ヨガのインストラクターを目指した背景はなんでしょう?

ヨガを始めた頃は生徒で満足していて、インストラクターになる気もありませんでした。2009年に、習っていた先生の一人がアメリカに別の流派のヨガを勉強しに行きました。帰国後そのレッスンを受けてみたら、とても楽しかったんです。これが「バーカンメソッド」との出会いでした。

最初に習っていたヨガは、誰でも同じ内容を90分やることになっていました。生徒の中にケガのリハビリ中のお爺さんがいても、壁に手をつくことも良しとしないやり方です。バーカンでは、ブロックや壁も自由に使い、自分が心地良いと感じるところでポーズをとります。一人ひとりができる範囲でやれるクラスに参加して「これがヨガじゃないかな」と思いました。それまでのクラスと違い、この新しいヨガでは音楽をかけ、楽しみましょうという姿勢です。しかも、あれだけヨガをやっていたのに出来ないことがあったのも衝撃でした。ずっと同じことの繰り返しで、鍛えられていない部分があったことに気づきました。このバーカンメソッドの良さを他の人にも伝えたい、と初めて思いました。

Q 実際にインストラクターになるために何をしましたか?

バーカンメソッドを教えるためにはフロリダで1か月間、考案者であるジミー・バーカンが行う研修に参加する必要があります。私は当時47歳で、新しいことをするには最後のチャンスだと思いました。その頃、勤めていた不動産会社の業績が傾いていたことから、仕事内容の負の部分が見え始め、辞めたいと思っていました。また、2009年に母が他界。父はもっと前に亡くなっていましたし、結婚していた時も子供はいなかったので、私がどこでこけようが誰にも迷惑をかけない状況だな、と思って。この3つの要素が重なって、仕事を辞めて一人でフロリダに行くことに決めました。ヨガの先生が「Never too late!」と言って、私の背中を押してくれました。

― とても大胆な決断ですね。

それまで、周りからの影響に流されてきた私の人生で、初めて自分の意志で決断しました。後日、ある人から「人は新しい道に踏み出そうと思っても、どこか一方であきらめる理由を探すものだけど、その時はあきらめる理由を探さなかったんでしょ?それは本当にやりたかった、ということだね。」と言われました。ああ、そうなんだな、と実感しています。

Q 研修参加や渡航の手配はどうしましたか?

フロリダに行ったのは2010年の夏です。私にバーカンメソッドを教えてくれた先生は、所属していたスタジオ絡みで研修に参加したのですが、私は一個人で申し込むので大変でした。英語すらできないので、スピードラーニングを聞きましたよ。でも、バーカンのスタジオがあるフロリダのフォートローダーデールという町にいるのは、アメリカ人のお金持ちやスパニッシュなまりの人がほとんどなので、日本人の話す英語は全く通じませんでした。講習が行われるフロリダのスタジオに日本から電話しましたが、相手のいう事が全く聞き取れず、無言で電話を切ってしまいました。困っていたら、現地のチサさんという日本人女性からの留守番電話が残っていました。日本からの電話が通じなかったと聞いたジミーが、フロリダのスタジオの生徒だった彼女に電話するよう頼んでくれたそうです。チサさんがスタジオの予約も手伝ってくれ、空港まで車で迎えに来てくれました。彼女はジミーとも仲良しで、私は滞在中何から何までお世話になりました。買い物に付き合ってくれたり、自宅で洗濯させてくれたり、トレーニングのない日にはあちこち連れ出してもらいました。

Q 研修体験について聞かせてください。

クラスメートは合計50名で、アメリカとオーストラリアからの参加者がほとんどでした。最年少は19歳でしたが、おじさんおばさんまで幅広い年齢層が参加するのを見て、日本よりヨガのすそ野が広いのを感じました。研修内容はハードですが、ピュアな人たちと1か月すべてヨガ一色の生活でした。私の人生の中で、この一か月が一番きらきらと輝いています。

毎朝6時に起き、7時から日の出を見ながらビーチで太陽礼拝。それからビーチで全員で瞑想します。その後はトレーニングで、ヨガの技法やティーチングについても学びました。私は英語の部分は落ちこぼれていたので、ヨガのポーズだけは頑張り、ジミーからは「テイクイットイージー」と言われ続けていました。研修を終えて、バーカンメソッドを教えて良いという資格を手にしました。

Q フロリダに行く前にお仕事は辞めていましたが、帰国後はどうされましたか?

フリーのヨガ・インストラクターとして生きていくしかない状況です。ヨガスタジオやスポーツクラブでオーデションなど受けて仕事を探しました。多くが「指導経験1年以上」を条件にしているので、最初は先輩の代講を引き受けたりして地道に実績を作っていく必要があります。私は運よく、以前習っていた先生の紹介で、新しくホットヨガを始めるスポーツクラブから好条件で雇ってもらうことができましたが、他にもバイトもしていました。

Q フリーのヨガ・インストラクターの日常はどんな感じですか?また、フリーにならず、会社に所属して教える方法もあるのですか?

フリーの場合は1クラス教えていくらもらう、というのが普通です。一人暮らしで自分ひとりの収入でやっていくとすると、週20本はレッスンを入れないと生活が成り立ちません。フリーの場合は、異なるスタジオを渡り歩くので、1日3本くらい入れるのが普通です。スタジオ同士が近ければいいですが、フリーの場合は1都3県くらいカバーしないと必要なレッスン数に達しないので、移動が疲れますね。

一方で社員インストラクターという道もあります。週5日勤務で、シフト制、受付や事務作業、掃除などもしながら、1日2本クラスを持って、月20万くらいの収入になります。生活は安定しますが、自分の練習の時間は少なくなります。大手スタジオでは、メニューが決まっているので、自分の教えたいヨガとは関係なく、決まったポーズについてしゃべるだけの仕事になりがちです。

自身のホットヨガ・スタジオのスタート

Q 今のホットヨガ・スタジオを始めたいきさつを聞かせてください。

以前、一緒にヨガを習っていた知り合いの女性が、全国20店舗以上を展開する会社の社長でした。彼女がなぜか私を気に入っていて、ホットヨガスタジオを一緒にやろうと持ち掛けてきました。二人でスタジオ向けの物件を調べましたが、レンタルスタジオは高いし、賃貸物件も改修工事にお金がかかるので、一旦は無理だろうとあきらめていました。しばらくして、たまたま岩盤浴場の居ぬき物件が出ているのを見つけたんです。岩盤浴で温まるならホットヨガに使えるのではないかと思い、見に行ったところ、トイレ、シャワー、受付けまで完備していて一目で気に入りました。

知り合いの女性はさすが実業家で、有利な条件で賃貸契約をまとめてくれました。彼女と私の連名の契約でしたが、ほぼ彼女の出資です。また、以前一緒にヨガを習っていた友達も一緒にこの新スタジオに加わりました。彼女は普通にOLをしていたのですが、休職してフロリダにヨガの勉強に行ったら、いない間に会社に勝手に辞めさせられていて職がなくなっちゃんたんです。7月に物件を見つけて、9月にはオープンしました。

私も友達も全くの素人ですから、集客する方法もわからず、最初は人が来なくて赤字続きでした。1月に入ってから少しずつお客が入り始めて何とか閉店の危機は免れましたが、実業家の女性が思ったほど儲からないと怒り始め、自分の出資金を返せと迫ってきたんです。そんなことを言われても、手元にお金がないので返すこともできません。彼女としては何か別の事業にそのお金を使いたかったのか、金利10%の返済計画書を出してきて、一週間後に耳をそろえて返すなら金利ゼロでいいと持ち掛けてきました。のっぴきならない事態でしたが、昔からの友達が全額分用立ててくれたおかげで、一週間以内に返すことができました。彼女は高卒で生命保険会社に勤め、ずっと貯金していたようです。金利はいらないと言われましたが、2%の金利をつけて2年間で完済しました。友達には、銀行の利息より高かったと感謝され、結局ごちそうしてもらいました。

出資金を全額返したにも関わらず、今度はその実業家の女性が、賃貸契約を解約すると勝手に不動産屋と大家さんに手紙を書いて来ました。彼女と電話で話した不動産屋さんも、言っていることが支離滅裂でよくわからなかったために不信感を抱き、名義はあなた一人にした方が良いと勧められました。弟を連帯保証人にすることで、大家さんの了解も取り付けてくれて、自分名義の賃貸契約として、契約を巻き直しました。

― 大変なご経験をされましたね。

はい、本当に、これら色々なことが嫌でした。自分は自営業に向いていないと思います。今でもスタジオを経営しながら、悩むことが多いです。

Q 今のスタジオの状況は?

インストラクターは私以外全員フリーです。オープン当初は6,7人で回していましたいまでも、そのくらいの人数で一人週に5,6本のレッスンを担当するのが理想だと思っています。ただ、そうすると穴埋めがうまくいかなくなり、結局週1クラスのインストラクターも増えてきました。

空いているクラスもあるので、宣伝が必要だと思っています。ホームページを作ったこと以外には、オープン時にスタジオの近所でチラシのポスティングをしただけです。ここを探してきてくれる人以外にどうやって知ってもらえるのか、考えるつもりです。こんなスタジオが近所にあったらいいな、と考えて作ったので、地域の方にまず知ってほしいです。

Q これからの目標はありますか?

ここの生徒さんの中に、大手のスタジオと違って、気軽に来られるところがいい、との声がありました。近所にあるから通えるという人もいます。

ヨガは若い女性がするイメージですが、40代から60代の人にむしろ来てほしいです。今の時代、介護される人も増えています。少しでも体を動かして健康寿命が長くなるようにするのが大事だと思います。

やってみたいのは、60代以上のシニア向けクラスです。例えば1時間クラスのうち、最初の20分は岩盤浴で温まるだけ、その後20分ストレッチしたら、残りは自由に過ごすのはどうでしょう。まずは生徒さんのご家族に勧めてもらおうかと考えています。