原 隆

0011

  • 年齢39歳

  • 出身地 宮崎県

  • 結婚非公開

  • 海外経験なし

  • 職業 雑誌編集長

  • 勤務地 東京都

  • 会社名日経BP社

  • 出身校 早稲田大学

  • 専攻 政治経済学部経済学科

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3 Points

私立中高一貫校入学後、最初の三者面談で成績不振のため公立編入を勧められる

高校進学時の危機に先輩から聞いた「裏技」でなんとか回避

恩師の一言がきっかけで英語を頑張るようになり、その後ジャーナリズムの道へ

岩田真一

聞き手

岩田真一

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幼少期

Q 原さんの子供の頃や地元について教えて下さい

宮崎県の宮崎市生まれです。新興住宅街で育ちました。空港から近い場所で、少し行けば田んぼが広がり、沼や防空壕跡のようなものもありました。自然が多かったので基本的には外で遊んでいました。沼に行ってスルメでザリガニを釣ったり、工場跡に忍び込んだり。ただ、ファミコン世代でもあるので、当時はドラクエ全盛時代。友達と外でドラクエごっこをしたりして遊んでいました。海もありますがちょっと子供だけではいけないので、家族で潮干狩りに行ったりした程度です。4つ上と6つ上の姉がおり、一番上の姉にはかわいがってもらい、2番目の姉とはよく遊んでいました。

Q ご両親とも宮崎ご出身なんですか?

はい。父と母は高校の同級生同士です。二人とも東京の大学に通っていましたが、地元に戻ってきていました。最初は父方の祖母と同居で、その祖母が亡くなった後は県内の母方の祖父母と同居していました。

ー 小さい頃、病気がちだったとか。

はい。生まれつき特発性血小板減少性紫斑病という、当時は難病指定されている病気でした。幼い頃から通院することが多く、物心がついた3歳頃まで、病院に通っていた記憶があります。幸い今はもう治っています。

ー ご両親は心配されたでしょうね。

そうですね。せめて人並みの体力がつくようにと水泳やラグビーをやっていました。ですから大学に行ってタバコを吸い始めた時は「大事に育ててきたのに...」とぼやかれました。

小学校時代

Q 小学校時代はいかがでしたか?

宮崎は「出る杭を打つ」と言うか目立つと足を引っ張るようなところがあって、なるべく目立たないように過ごしていた記憶があります。今でも覚えているのは父から「宮崎では『自分がやる』と言ったり『手を挙げる』と足を引っ張られるから、黙っとけ」と言われたことです。

Q そういう文化があったのですね

そうですね。なるべくフラットで、人同士で差を生まないことがコミュニティの維持に大事だという雰囲気がありました。小学校5年生のときに母方の祖父母と一緒に住むために転校したのですが、その学校は当時で創立100年という古い学校でしたから、尚更その傾向が強かったです。

中学受験

Q 原さんは中学受験をされましたが、経緯を教えていただけますか?

田舎ですから受験をする子はクラスに数名程度で、宮崎大学附属中学校を受験するというのが定番でした。私の場合はちょっと違っていて、幼稚園から続けていたラグビーがきっかけです。中学校でラグビー部があるところは少なくて、鹿児島ラ・サール中学校にはあるということが分かりました。両親がラ・サール学園の体育祭を見に連れて行ってくれたことがありまして、男子校で、中高合同の体育祭の迫力に圧倒され、ここに行きたいと思うようになりました。ただ、ラ・サール学園がそれほど学力レベルが高いとは知らず、自分の学力との差を知って猛勉強することになりました。

Q 受験のための塾には通われていましたか?

小学校4年生くらいから通い始めました。塾に来てる子達は少数精鋭という感じで、みな勉強ができて凄いな、というのが第一印象でした。ラ・サール中学に行きたかったので、なんとかしようと思い、その中でも一番勉強ができた友達に勉強の仕方を聞くことにしました。たとえば一週間の勉強サイクルについて言うと、自分の場合は、1週間かけて勉強して週末にテスト、というサイクルだったのですが、その友達はもう火曜日には一通り終わっていて、水曜日からは復習をしている、と。驚きましたがそのやり方を真似しました。

Q 小学校の先生たちは県外の学校を受験することに対してどのような反応でしたか?

そもそもなぜ受験するんだ、ということをかなりしつこく問い詰められました。しかもなぜ県外なんだ、なぜ宮崎ではダメなんだ、と。その先生にとっては、地元で生まれ地元で育ち、地元で就職することが一番良いという考え方だったんだと思います。

Turning Point

中学校時代

ー 見事ラ・サール中学校に合格されましたね

はい。でも最後まで模擬試験の合格判定はC判定だったので、塾でも合格を驚いている状況でした(笑)。

Q ラ・サール中学だと宮崎からは通うのが難しいですから寮に入ったんですよね?

はい。生徒のおよそ半分くらいが寮生で、地元から通っている生徒も多くいました。

Q ご両親は寮生活になることについてどのようなご意見をお持ちでしたか?

両親とも大学は東京だったため、宮崎がいかに田舎であるかということをよく知っていました。特に母は「ずっと宮崎にいたらダメだ」とよく言っていました。宮崎の中にいると、世間を知らない「井の中の蛙」になってしまうことを心配していたようでした。とにかく息子を「早く外に出さなきゃ」と思っていたようです。ですから寮生活を送ることに関しては特に何も言っていませんでした。

ー ご両親の視野が広かったんですね。

九州と言っても本当に県ごとに考え方が違うんです。宮崎は割とのんびりしている空気が漂っています。

Q 中学時代はいかがでしたか?

それが... 入学後の最初の三者面談で担任の先生から成績不振のために地元の公立中学校への編入を勧められてしまいました。宮崎でそれなりに頑張って勉強してきたつもりでしたが、学年の順位は下から3番目という状況でしたので。ラ・サール中学校には北海道、東京、兵庫、大阪から優秀な生徒が集まってきますから、皆頭がいいんです。レベルの違いに愕然としました。

ー それはつらいですね。

はい。ですから自分の拠り所を求めるようになりました。元々スポーツが得意でピアノも弾けたので、そこに居場所を探しました。ところが見渡してみると勉強もできて自分よりスポーツもピアノも出来る人たちがいる・・・。逃げ場がなくなりました。「いつクビになるんだろう」という状況でした。ラ・サールでは高校受験をして入ってくる生徒も100人程度いました。高校から入ってくる生徒も頭がいいので、いよいよまずい状況です。

Q でも原さんはちゃんと高校へ進学できています。どうやって切り抜けたんですか?

一つ上の先輩に自分と同じような状況の人がいて、いいことを教えてくれたんです。「生徒会長だったら自主退学は迫られないはずだ。もはやそれしか方法はない」と(笑)。生徒会長の任期は4月1日から3月31日までですから、その任期中は退学候補者の「リスト」に載らない、と。

ー (笑)それで立候補したんですね。

はい。元々「手を挙げてはいけない」という宮崎気質でしたが、両親に相談したら「やってみろ」と言われて。自分を含めて全部で4名立候補者がいたと思います。自分以外の立候補者は皆勉強が出来るし、掲げる公約も素晴らしい。。一方で、自分はたいして掲げたい公約があるわけでもない。ただ、生徒の間では「生徒会長になれないと学校をクビになりそうだ」という認識が広まっていて(笑)、その同情票に助けられて当選しました。おかげで自主退学を勧められることもなく、高校にも無事進学出来ました。

ー ものすごいサバイバル!一方で残念ながら退学していく生徒もいるんでしょうね。

そうですね。同じ寮の友達とか。ただ自分にとっての問題は、いくら頑張って勉強しても辞めていく人も多いので、いつも下のほうをうろうろせざるを得ないということでした。

高校時代

Q 高校になってからはいかがでしたか?(ワクワク)

なんと中学1年生のときに三者面談で退学を勧めてきた担任の先生が、高1でまた担任になったんです。最初は嫌だなと思いましたが、今度は意外なことにとても優しかったんです。「君はね、副教科(体育、音楽、美術など)に関しては完璧じゃないか。あとは主要教科だけだ」と言ってくれました。その先生は英語の教師だったので「数学などはセンスのようなものが要るかもしれないが、英語なら頑張れば身につくよ」とも言ってくれて、それから他の教科を捨てて英語に集中するようになりました。

ー いいお話ですね。原さんのやる気を引き出した恩師のような先生ですね

はい。その先生はもう亡くなられているのですが、今思うと中学1年の時に地元の中学へ編入することを勧めてきたのも自分のためだったような気がします。今その成績だとこれから6年間、ずっと劣等感を感じながら過ごすことになる、と。実際、ラ・サールは進学校と思われがちですが、クリスチャン校ですし、教育に革命をもたらしたとされる創始者のジャン=バティスト・ド・ラ・サールさんの意志が色濃く受け継がれています。昔フランスでは教育というと1対1の家庭教師しかなく、上流階級以外には教育の機会がありませんでした。そこでラ・サールさんは、1対多の授業スタイルを確立し、お金のない人でも教育を受けられるようにしました。その精神を受け継いています。例えば、現在でも、生徒の家庭に事情があり、授業料が払えなくなったような場合でもブラザー達(男性なのでシスターではなくブラザー)がお金を出し合ってその生徒を卒業させる、ということがあります。

Q 高校では外部からの募集もあったということで、何か影響はありましたか?

外部から受験して高校に入ってくる人は皆勉強してきますから、トップ30はさすがに無理ですが、そのトップ下あたりに100名がどかっと入ってくるんです。そのせいで、自分の順位は必然的に下に追いやられます(笑)。苦しかったですね〜。普通なら「なにくそ!」と思うところですが、自分の場合、もともとの宮崎気質を持っているせいか「世の中って凄いな〜。すごい人ってたくさんいるんだな〜」という気持ちで眺めていました。

大学受験

Q 大学進学に関してはいかがですか?

大学に行く理由が分からなくて困っていました。ただ担任の先生の勧めで英語を一生懸命やるようになり、視線が海外に向きました。国連職員になるにはどうしたら良いのかとか、コロンビア大学のジャーナリズム専科に行ってみたいなあとぼんやり思うようになりました。TOEFLの勉強をしてみたり。いわゆる受験勉強というよりは、興味があることが少しずつ見つかってきて、そのために必要なことをやろうとしたという感じです。いずれにしてもあまりこの大学に行きたい!という意識はあまりなかったですね。

Q 海外の大学は受験されたのですか?

いえ、両親に相談したら、父は古い人間なので「日本で就職するなら日本の大学だ。留学なら大学に行ってからすればいい」と言われたこともあり、海外の大学は受験しませんでした。そこからは、じゃあ別にどこの大学でもいいや、と思っていました。

Q どのようにして大学を選んだのですか?

あるとき校長先生に呼ばれたんです。「君、大学はどうするの?」と聞かれ、あんまり考えていないことを伝えると指定校推薦を教えてくれました。選択肢は早稲田大学と慶応大学と上智大学。いろいろ性格も鑑みて早稲田大学の政治経済学部に決めました。

ー 原さんは生徒会長をされたりしていたし、ラ・サールの精神というか校風ということもあって、校長先生も目をかけていらっしゃったのでしょうね

当時のホセ・デルコス校長先生は非常にフランクな人でした。中学も高校も無駄に皆勤賞でしたしね(笑)。後日談ですが、大学では留年もせずちゃんと4年間で大学を卒業し、校長先生から褒められました(笑)。ずっと気にかけてくれていたんだと思います。

大学時代

Q 大学生活はいかがでしたか?

最初は全然雰囲気に馴染めずに、学校にはほとんど行っていませんでした。1年生の時は8単位しか取得できませんでした。

Q なぜ馴染めなかったのでしょう。性格が合っていると勧められた早稲田なのに

入学したら「早稲田が一番!」と思っている人が多くて、何となくその早稲田愛の強さに馴染めなかったんです。中学高校で頭のいい人たちを見過ぎていたからかもしれません。「僕達レールに乗ったね。やった」という雰囲気がどうにも嫌だったんだと思います。まあ自分も若かったんだと思います。

Q 大学に行かずに何をしてたんですか?

家にいることが多かったです。ちょうどインターネットが使えるようになって来て、パソコンを買ってHTMLやCGIを勉強して、Webサイトを作ったりしていました。インターネットって凄いな〜と。経済学会というサークルには時々、顔を出してました。「授業のノートが出回る」という理由ですが。その授業のノートをPDF化したり、ウェブサイトを作ったりしていました。バスケのサークルにも入っていましたね。

Q その後もずっと大学に行かなかったのですか?

いえ、さすがにマズイと思って2年生くらいから行き始めました。ただ、今度は大学の友達と麻雀漬けになりました(笑)。とにかく麻雀中心の生活だったのでアルバイトもシフトがあるようなものは極力避けました。麻雀の誘いを断るのが嫌だったので。着ぐるみを着て風船を配ったり、住宅展示場の看板を持って立っているだけのアルバイトばかりです。3年になって始まったゼミは面白かったですね。幹事長もさせてもらいました。当時のゼミ仲間とは今でも交流があります。

就職活動

Q 就職活動の状況はいかがでしたか?

ものすごい就職氷河期でした。それに特にどこに行きたいとかもありませんでした。ジャーナリズムには興味があったので、日経新聞、NHK、TBSを受けました。日経新聞は筆記試験で落ちました。TBSは4次面接まで行きましたがダメでした。NHKは、テレビ局に勤めていた父が「NHKは凄い」と言っていたこともあり、唯一「とても行きたい」と思った会社でした。ただ、最終面接の前日、あまりにもNHKへの思いが強くて緊張してしまい夜眠れなくて、当日寝坊してしまったんです。面接は受けさせてもらえましたが、不合格でした。そんな時、司法試験を目指している友人が、就職活動も少し経験したい、ということで日経BP社の会社説明会を聴きに行ってそこで配られた受験票を持っていたんです。それを貰って(笑)日経BP社を受験して、採用されました。

就職 - 日経BP社

Q 高校の頃からジャーナリズム志望は一貫していましたね。原さんは一度も転職されていませんが、一度も考えたことはないのですか?

転職活動というわけではないですが、知人の紹介があって某新聞社を受けたことがあります。当時所属していた日経ネットマーケティングはかなりオープンな環境で、こそこそ転職活動するというのではなく、上司も含めて周りの人に「受けてくる」と公表していました。そして面接が終わると、上司も「どうだった?」と聞いてくるくらいでした(笑)。

転職(の機会)- 某新聞社

Q その転職活動(?)はどうだったのですか?

一番最初の時、筆記だけかと思って普段着(ジーンズにTシャツ)で行ったんです。普段ネット業界にいるのでそれが普段着だったもので。そうしたら周りは皆スーツ。自分以外の人はその日に面接があることを知っていたようでした。面接では正直に謝りまして、面接官も理解してくれて1次面接は通過しました。

ー それは冷や汗モノですね

それで2次面接の時はスーツで行ったんです。でもネクタイは締めていませんでした。そしたらそのことを面接官に突っ込まれました。「君は1次面接でもTシャツだったそうだね」と。凄い圧迫感のある面接になっちゃって、しょうがないので逆ギレしました。というのも、その新聞社は当時、「ノータイ運動」を展開していることを大々的に謳っていたからです。言っていることとやっていることが違います、皆さんもネクタイしてちゃいけないんじゃないですか?と。そしたら2次面接も通過しました(笑)。

ー 凄い... それで最終面接は...(ドキドキ)

一応、ネクタイを持っていきました。駅を降りてネクタイをしようかどうしようか迷ったのですが、服装のことしか言わない会社だしと、結局ネクタイをしていきました。そしたら面接で「社内では、あなたが最終面接にネクタイをしてくるかどうか皆注目していました(笑)」と言われ、最終面接も通過してしまいました。

Q さすがというか... 凄いですね。でも結局転職はしなかったわけですね?

結局しませんでした。内定が出たものの、給料も仕事内容もはっきりする前に内定書にハンコを押すように言われたんです。さすがにそれでは押せないなあと思いました。先方の人事の方はとても意外そうに「当社には全国からエース級の記者の方々が中途入社したがるんですよ」とおっしゃっていました。そのまま1ヶ月が過ぎて、人事部の方も色々とアレンジしてくれて役員の方と会わせてくれたりしてお話できました。役員の方々は皆さん危機感を持っていらっしゃる様子でいいなと思ったのですが、その一方、現場の方々と話してみると給料の話や、福利厚生の話しか興味が無いような感じで... ちょっと違うかなと思いました。

ー きっと転職すれば給料も増えたのでしょうが、それでも転職されなかったんですね。

自分はどちらかというと「ヤバそうな環境」が好きなんです。上手くいっている会社だとなかなか若手にチャンスが回って来ることが無さそうだという考えがありまして。当時の自分の会社は業績がやばかった。なので、その新聞社と今いる自分の会社を比較して、どちらががヤバいかなと考えたらそのまま残ったほうがよいという判断で残りました(笑)。

日経BP社 編集長

ー なんともコメント出来ませんが(笑)。それでそのまま転職せず現在に至り、今は編集長としてご活躍されているわけですね

はい。新卒のまま一度も転職せずにここまで来ました。

ー 原さんのお話はエピソードが満載で、かつ面白すぎて(笑)、現在のお仕事についてはほとんど聞くことが出来ませんでした。また折を見て是非「後編」をインタビューさせて下さい。今日はありがとうございました

承知しました。いつでも大丈夫です。どうもありがとうございました。